高杉晋作に子孫はいるの?

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幕末期、奇兵隊を率いて討幕運動に邁進した長州藩・高杉晋作。久坂玄瑞とともに松下村塾の「双璧」とされ、松陰からも「僕、足下と交を納るるは、徒に読書稽古の為めのみに非ず、固より将に報国の大計を建てんとすればなり」と厚い信頼を寄せられていました。

そんな晋作は万延元年(1860)、防長一の美人と言われた山口町奉行・井上平右衛門の次女・雅子と結婚します。しかし 尊王攘夷運動のため日本を奔走する晋作はほとんど家にいることはなく、7年の結婚生活のうち、共に暮らしたのは1年半ほどだったそうです。

晋作には下関の芸妓で身請けまでしたおうのという愛人がいたようですが、雅子とおうのが性格が合わず、激しい言い争いは無いもののずっと冷戦状態で高杉すら困り果てたと高杉も手紙に書いているほど仲が悪かったそうです。高杉晩年はそのほとんどをおうのを過ごしていましたが、おうのとの間には子どもができませんでした。

ここでは雅子との間にできた晋作の子とその子孫についてまとめてみました。

子・東一

嫡男。幼名・梅之進。元治元年(1864)10月5日、晋作24歳の時に生まれました。しかし、その3年後晋作は肺結核により死去してしまい、東一は祖父母と母の手で育てられました。東一は、外交官としてホノルルやウィーンなどに在駐。アメリカにも渡り、23歳にして1500ページにも及ぶ「英和新国民辞書」の纂訳をしています。東一は大正2年(1913)7月、48歳で没しています。

晋作がお世話になった明治政府官僚の方が、東一に爵位を与えようとした際、東一は「親の七光りで頂くのなら欲しくない」と断ったという逸話があります。

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孫・春太郎

東一には妻・茂との間にニ男二女があり、長男・春太郎が跡を継ぎました。晋作没後五〇年に長州閥が、山県有朋等を発起人総代、木戸孝允を委員長として五十年祭記念会を結成、靖国神社で祭事や遺墨展を催していますが、春太郎はこれに合わせて『東行先生遺文』を発行しています。

戦時中は一年志願の陸軍主計少尉として満州・シンガポールを転戦したそうです。戦後は商社に勤め、要職に就いていました。昭和32年(1957)5月、54歳で没しています。

曾孫・勝

大成建設にお勤めでしたが、萩博物館編『松下村塾開塾一五〇年記念 吉田松陰と塾生たち』の協力者一覧に「下田開国博物館 高杉勝」とありましたので、企業退職ののち博物館に入られたようです。

2010年4月高杉の遺品を巡り東行庵に訴訟を起こされていましたが、その半年後の11月10日、77歳で没しています。

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