伊達政宗の眼帯に関する謎 本当に着用していた!?

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「独眼竜」の異名を持つ伊達政宗のイメージって、「片目」で「眼帯」だという方がほとんどだと思います。

しかしそのイメージはいったいいつから、どうやって定着したのでしょう?そもそもどうして政宗は片目になってしまったのでしょうか?

それに、刀の鍔を眼帯に…って、ちょっとカッコ良すぎるなあと思ったりするわけです。

それでは、政宗の眼にまつわる諸々を検証していきたいと思います。

実際に眼帯を着用していたの?

ゲームやイラストでは、眼帯着用の実にクールな政宗を見かけますよね。ドラマでも着用していました。

ところが、政宗の肖像画に眼帯をしているものはないんです。それどころか、無いはずの右目がちゃんと描かれていたりすることもあります。

いったいどういうこと?とお思いかもしれませんが、これは政宗の遺言によるためなんです。政宗曰く、「片目を欠いたままでは、親不孝に当たる(親から授かった大切な身体なので)ので、右眼を入れておいてほしい」と。なので、肖像画では眼帯がないんですね。

しかし、実際の政宗はどうだったのでしょうか。秋田藩佐竹家に関する記録を編纂した「佐竹文書」によると、政宗は「白き布にて右目を隠し」と記録されています。これを日常的にしていたのなら、眼帯と考えても良いかもしれません。

一方、大衆イメージの中の政宗の眼帯は、刀の鍔に紐をつけたものです。刀の鍔を本当に用いるとすれば、鉄製ですからかなりの重たいですし、紐をきつく締めなければならないので、長時間着用し続けるのはちょっと困難ではないかと思われます。使用していたならば、鍔風の違う素材なのかもしれませんね。

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眼帯はいつごろから着用していた!?

では、政宗が眼帯を使用していたなら、いつからしていたのかということになります。

これに関してはほぼ不明なのですが、元服したのが1577年で政宗10歳のときです。元服すれば一人前の大人ということになりますから、人前に出ることも多くなったはずです。

ですから、他人を驚かせないためにという配慮や、政宗自身が片目の自分を見せることをはばかったかもしれないということを考慮して、このころから眼帯をしたのではないかと考えます。

片目を失った理由

政宗が片目を失うことになった原因は、幼少時に患った疱瘡だというのが定説です。疱瘡のために飛び出してしまった右眼球を、守役の片倉小十郎景綱が切り落としたのだと言われています。

また、江戸時代中期に成立した大名や武士の言行などの逸話集である「明良洪範(めいりょうこうはん)」によると、片倉が政宗に右目を切るように進言し、政宗は決心し自分で右目を切り落とします。大出血により気を失いかけると、片倉は「この程度で弱るとは情けない!」とあえて叱咤することで政宗が意識を失わないようにし、政宗は気を持ち直したといった話が収録されています。

ただ、ここで気になる事実が現代になって判明しました。1974年、政宗の霊廟・瑞鳳殿再建にさきがけて発掘調査をした際に、遺骨を調べてみると、右眼窩に異常は見られなかったというのです。右目を失っているなら、何らかの異常が起きていてしかるべきだということで、今になって政宗の隻眼説について疑問を投げかける説が出てきています。

まとめ

後年、豊臣秀吉や徳川家康に「右目はどうしたのか」と尋ねられた政宗は、「木から落ちたときに飛び出してしまったけれど、あまりにおいしそうだったので食べちゃった」と答えたという逸話があります。

ウィットに富んだ答えを返せるくらいですから、右目のことは全然気にしていなかったのでしょうね。

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xiao

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歴史と犬の話題があれば生きていける、そんな人間です。
平安時代と戦国時代が好きですが、調べ出したらどの時代でも面白いです。歴史って本当に面白いものですね。
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