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悲劇の武将 長宗我部盛親にとっての関ヶ原の戦い

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長宗我部盛親は、土佐の戦国大名長宗我部元親の四男として生まれました。

本来なら四男という立ち位置ならば、家督を継ぐはずもないわけですが、盛親は家督を継ぎ関ヶ原の戦いに馳せ参じるのでした。

関ヶ原の戦いまでの彼の生い立ちを追ってみましょう。

青天の霹靂で家督相続した盛親

本来なら長男である長宗我部信親が父:元親の後を継ぐはずでした。

しかし、その信親は豊臣秀吉による九州征伐の最中の戸次川合戦で島津軍に討ち取られ戦死してしまいます。

このとき、元親の次男である親和は香川家、三男である親忠は津野家と養子として他家の家督を相続していました。

そのため、父である元親が評価をしていた長男:信親の娘を四男:盛親の正室に迎えることで家督を相続させることとなりました。

この家督相続については強引に元親が決めたとされており、重臣の吉良親実(元親の甥)などの反対や豊臣家からも認められていなかったとされる説があります。

その後、小田原征伐や朝鮮出兵を経て、盛親は1599年父元親の死とともに正式に家督を相続しました。

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本当は東軍につきたかった関ヶ原の戦い

盛親は、家康の重臣で徳川四天王である井伊直政と懇意にしていたという記録が残っています。

それもあり盛親は、関ヶ原の戦いの前に家臣たちと計って家康に荷担することを決めていました。

この決定を認めた密書を持った盛親の密使が捕えられたという説や西軍の長束正家に進路を阻まれたという説がありますが、東軍へ荷担したかったにもかかわらず、西軍陣営の妨害工作によって、盛親は仕方なく西軍として関ヶ原に参戦することとなってしまいます。

関ヶ原の戦いで盛親は、徳川方に内応していた吉川広家の後方に布陣をしました。

広家は南宮山に布陣した毛利秀元が徳川方の背後を突くのを妨害するために全く動かないという意図を持ち、動かなかったために盛親は兵を進めることすらできません。

そのため、関ヶ原の戦いでは盛親は全く戦いに参戦せず傍観者として過ごしてしまいます。

傍観者として過ごしただけや当初は東軍に組する気があったとしても、西軍陣営として参戦したことにより、その後の盛親の人生に大きな影響を与えることとなりました。

関ヶ原の戦い以後の盛親

盛親は、関ヶ原の戦い以後、西軍として参加していたため何とか改易だけは免れようと努力をします。

懇意にしていた家康の重臣井伊直政を通して謝罪をし、何とか許してもらおうと試みます。また、兄の親忠も長宗我部氏存続のために親しかった藤堂高虎を通じて家康に交渉を行なっていました。

しかし、盛親は、家臣の久武親直の讒言を信じ、兄親忠をよく調べもせずに殺害してしまうという事件が発生します。

これにより、家康は長宗我部盛親は領国経営も出来ない愚か者とみなし、改易処分となりました。

その後、盛親は京都所司代の監視下に置くため、京都に身柄を移されました。

京都での生活は豊かではなく、寺子屋で子どもたちに勉学を教えたり、旧家臣の仕送りでなんとか暮らしを立てていたとされています。

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