島津斉彬の暗殺説 その真相は?

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篤姫を将軍・家定に嫁がせた薩摩藩主・島津斉彬。彼の死はそのタイミングの良さから暗殺ではないかとする説があります。

しかも、その真犯人は斉彬の父・斉興だというのです。はたしてその真相はどうなのでしょうか?

斉彬の死

斉彬が死去したのは、1858年7月16日のことです。

死去の8日前、7月8日に斉彬は鹿児島城下での練兵を視察しています。そして視察を終え、斉彬が錦江湾で自ら釣った魚をさばいて食した後、気分がすぐれなくなり、そのまま死去してしまいました。

斉彬は死去する2日前には高熱や下痢に悩まされており、死亡原因はコレラとされたそうです。

暗殺説の浮上

なぜ斉彬に暗殺説が浮上したのでしょうか。その理由は、斉彬の死があまりにタイムリーだったことにあります。

当時というのは、家定が死去後の将軍継嗣問題で紀伊派と一橋派に幕府内が分かれ対立していました。斉彬はこの時家定の正室として嫁がせた篤姫を通して、一橋派の推す水戸藩主・徳川斉昭の子・慶喜を後継とするよう画策しています。しかし、時の大老・井伊直助が強権を発動、次期将軍には紀伊派の推す慶福が選ばれることとなったのです。

これに対し斉彬は藩兵5000人を率いて上洛することを計画しました。上洛後、朝廷から幕政改革の勅許を得、その兵力を背景に幕政改革を迫ろうとしたのです。

死去の8日前におこなった練兵の視察もそのためのものでした。

しかし、斉彬の突然の体調不良からの死去により、上洛計画は中止となったのです。

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真犯人は父親?

斉彬の暗殺を主導したとされるのは斉彬の父・斉興です。斉興が斉彬を暗殺する動機はふたつあると考えられています。

ひとつめは、上洛計画を中止させるためです。

斉興は当時隠居の身で、従三位の官位を頂き平穏無事な余生を送っていました。そんな斉興にとって斉彬の藩兵を率いての上洛はなんとしてでも止めたいことだったに違いありません。

斉彬としては公武合体という大義のためだったでしょうが、もしこれが失敗し幕府の機嫌を損ねでもしたら島津家は取り潰しになる可能性もあります。斉興としては御家安泰のため、それこそ「暗殺してでも」これを止めたかったと考えられます。

ふたつめは、斉彬との長年にわたる確執です。

斉興という人物は父・重豪の残した500万両というとてつもない借金を抱えながら、藩財政を立て直すため調所広郷を登用したことで知られています。当時の500万両といえば2500億円です。到底ひとつの藩でどうにかすることのできる額ではありません。しかし斉興は調所広郷をしてこの借金を事実上帳消しにすることに成功し、財政立て直しを成功させていました。

ところが嫡子である斉彬は重豪と同じく西洋の文物に興味を持ち、蘭学者や洋学者らと盛んに交流を持つなど、斉興から見れば金のかかる派手な活動をする人物でした。そのことで斉興は再び藩財政がひっ迫することを恐れるとともに、斉彬を嫌っていたといわれています。

斉興はそのため斉彬が壮年期に入ってもなお家督を譲ろうとしませんでした。斉彬はあまりに家督を譲らない斉興に業を煮やし、幕府に当時薩摩藩が行っていた密貿易を密告することで斉興の隠居を画策しています。この密告は、財政再建を成し遂げた調所広郷を自殺に追い込んでおり、二人の間には”親子喧嘩”と呼ぶにはあまりに壮絶な対立があったのです。

斉興は久光を跡目にしたかった?

斉興は正室との間に生まれた嫡子・斉彬ではなく、最愛の側室・由羅の方の子・久光を跡目にしたかったといわれています。しかも久光は実直・温厚な人柄。斉彬のように再び財政をひっ迫させるようなことはあるまいと考えたのかもしれません。

しかし、お由羅騒動をきっかけに1851年、斉彬が藩主となります。斉興としてはその後も機会さえあれば、久光を藩主にと考えていたかもしれません。

実際、斉興は久光に対し、斉彬の悪口をつづった密書を送り、その中で「手堅く相勤め」と指示しています。これに対し、今は我慢し、チャンスが巡ってきたときに備えよといったニュアンスにも読めるという指摘があり、興味深いです。

つまり斉興には藩を守り、久光を藩主(もしくはそれに準ずる地位)に就けるという斉彬暗殺の動機があったことになります。

体調を崩していた斉彬

しかし、一方で斉彬は本当に体調を崩しただけという説もあります。

斉彬という人は骨格も横幅があり、体つきも頑強であったと伝えられており、西郷隆盛の肖像画を描いたことでも知られているイタリア人・キヨソネもふっくらとした姿で斉彬を描いています。

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しかし、晩年斉彬を撮った銀板写真を見ると、随分と痩せた印象を受けます。

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斉彬は頻繁に体調を崩し政務を中断することもあったようで、こうしたことから過労などにより疲労が蓄積していたのではないかと考えられるのです。

しかも、南国鹿児島の7月といえばかなり蒸し暑かったはずで、疲労やストレスに熱中症や熱射病などが重なり、体調を崩していたのではないかと想像されます。

斉彬を失った薩摩藩

斉彬暗殺説に関しては正直五分五分という印象です。斉彬の死去前の容体からすればコレラとも毒とも見れ、はっきりとした物証なり文書なりがない限り真相は闇の中でしょう。

しかしながら、もし斉興が藩の安泰のために斉彬を暗殺したとすれば、愚行と評せずにはいられません。確かに斉彬は斉興からすれば重豪と同じく、西洋の文物に明るい人物でした。

しかし、それゆえに薩摩は富国強兵に成功し雄藩となり、明治になってもなお大きな影響力をもつことができたのです。

斉彬の死後、斉興は愛息子・久光の子・忠義を藩主に就け、自らはその後見人となり、斉彬が興した集成館を廃止するなど藩政の方向転換を行っています。

斉彬治世の完全否定ともとれる行動でした。それはつまり時代に逆行する政策だったといわれても仕方ありません。

斉興にとって斉彬の死は「ラッキー」だったのかもしれませんが、薩摩藩にとっては「アンラッキー」な出来事だったのです。

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