暗殺された新撰組筆頭局長「芹沢鴨」は本当に「悪」だったのか

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壬生浪士組(のちの新撰組)の初代筆頭局長という地位にいながらにして、内部抗争により暗殺されたと言われる「芹沢鴨」。

女、酒グセが悪く、乱暴狼藉の目立つ悪漢として語られることの多い人物です。

しかし、「尊皇攘夷」という思想面や生い立ち、経歴や実績などからも、隊内では支持の多かった芹沢鴨が、はたして粛清の対象となる「悪」だったのかは、おおいに疑問が残るところです。

今回は、芹沢鴨が暗殺された経緯と、本当の理由、また暗殺後の新撰組の変化を追ってみたいと思います。

深夜の惨劇

文久3年(1863年)の9月18日、会津藩による壬生浪士組の大宴会が島原角屋で開かれました。

その席で酒豪の芹沢鴨はおおいに酩酊し、配下の平山五郎と平間重助に支えられ、土方歳三の誘導のもとで屯所としていた八木邸へ戻ります。

深夜、八木邸の奥の間で愛妾:お梅と寝ていた芹沢鴨のもとに、やがて忍び寄るのは4人の刺客。芹沢鴨暗殺の命を受けた土方歳三・沖田総司・井上源三郎・山南敬助の4人であったと言われています(原田左之助参加などの諸説あり)。

抜刀した4人は、つい立てを挟み同室で寝ていた芹沢腹心の平山五郎を一刀のうちに殺害しました。

突然やってきた刺客の襲撃に芹沢鴨は跳ね起き、脇差で必死に応戦するも、泥酔しているうえに4人の手練れが相手ではどうにもなりません。

刺客は、芹沢鴨と一緒に倒れたつい立ての上から刀を突き刺し襲い掛かります。なんとかつい立ての下からはいだし、縁側伝いに隣の6畳間に逃げ込んだのですが、置いてあった文机につまづき転倒、そのまま命運つきました。

下帯もなく全裸だったという芹沢鴨の遺体には肩から腰にかけて大きく切り裂かれたほかに、無数の刀傷があったと言わています。芹沢と同衾していた愛妾のお梅もまた、その暗殺劇に巻き込まれ首を切られ死亡、同じ芹沢一派の平間重助と2名の女性は騒ぎに乗じて逐電し、その後の行方は知れません。

翌日、京都守護職に「芹沢鴨が何者かによって殺害された」という旨の一報がもたらされ、その次に日には、大々的な葬儀が行われました。

はたして芹沢鴨だけが「悪」なのか

芹沢鴨といえば、強引な金策や酒の席での悪行、自分の意に応じない者には狼藉を働き、気に入らないことがあるとたとえ部下であっても容赦なく鉄扇で打ち据えるなど、蛮行が目立つ人物のイメージがあります。また、それらが理由で暗殺されたとの説が長い間存在していました。

残されている史料を元にデフォルメした人物像である可能性が大きく、フィクションの中でよりドラマチックな演出の1つとして「芹沢鴨=巨悪」とすることで、近藤勇、土方歳三率いる近藤派を正当化するために作り上げられた芹沢鴨像なのかもしれません。

幕末史の中で、芹沢鴨が起こしたとされる事件が3つあります。「中山道かがり火事件」「大阪力士乱闘事件」「大和屋襲撃事件」です。

中山道かがり火事件

「中山道かがり火事件」とは、浪士組が京へ向かう途中、宿割りの際に、近藤勇らの不手際で芹沢一派の宿を押さえ忘れてしまったことに怒った芹沢鴨は、往来に野営と称し大きなかがり火をたき、取り締まりに来た役人らにけがを負わせた事件です。しかし、これは、永倉新八による「新撰組顛末記」にしか記述がないそうです。

大阪力士乱闘事件

「大阪力士乱闘事件」とは、芹沢鴨が大阪出張中に起こった力士との乱闘事件です。橋を渡る際の「道を開けろ」「いや、そちらが避けろ」との口論で、芹沢鴨が相手の力士を無礼打ち(脇差で峰打ちにしたとも殴り倒したとも斬り殺したともいわれ諸説あり)、それに怒ったほかの力士が、浪士組の宿に報復のため徒党を組んで押しかけてきたので、やむを得ず乱闘となり、新撰組隊士の側には負傷者、力士側には死傷者がでました。

これまで一方的に芹沢鴨が起こした乱闘という扱いをされることもありましたが、そこには斎藤一や沖田総司らもおり、応戦して相手を死傷させています。その後力士たちとは和解し、相撲興業で収益を得るなど、決してマイナスだけの事件ではなかったようです。

大和屋襲撃事件

粛清の原因ともいわれる「大和屋襲撃事件」は、金策を断られた腹いせに、芹沢鴨が隊士らを引き連れ、生糸商大和屋の土蔵に放火した事件です。

大砲を打ち込んだとされる説もありますが、その当時壬生浪士組に大砲があったという資料はなく、後世の創作であることが分かっています。焼き討ちとはいえ、事前に周辺住民には避難や注意の喚起をし、類焼を防ぐために周囲の建物を取り壊したり、土蔵の内部だけに火が付くようにするなど、配慮をみせています。

また、多くの西陣の職人らが、鎮火した後の打ち壊し(買い占めや暴利により私腹を肥やすなどの不正を働いた商家の家屋を壊す民衆運動)に参加していることから、けっして芹沢鴨が独りよがりの腹いせに行った事件ではないことが推測されます。

芹沢鴨が行った金策も、あくまでも借金の体をしているので、恐喝やゆすりといった要素は表立ってはないものの、強引であったことは間違いなかったようです。

しかし、芹沢の金策が無ければ、隊士が増え大きくなってゆく新撰組の資金は乏しいものになってしまっていたのは事実でありましょう。

暗殺後の新撰組から見えてくる、芹沢鴨粛清の本当の理由

「因果応報」という言葉もある通り、理由があって結果がある、というのは世の中の理でもあります。

しかし、多くの人の口を介しながら歴史の闇を漂ううちに、事実は少しずつ曲がり形を変えていくものです。見る方向によって事実や正義は異なって見えます。

まず、結果ありきで、それを導くための理由づけとしての説が出てくることが往々にしてあるのです。

芹沢鴨の暗殺について考える時に、「芹沢鴨は暗殺されるべき人物だった」ということを印象付けるために考えられた理由やエピソードが多いとの印象があります。後世に書かれた新撰組を題材とした小説や映画などの影響が少なくありません。

このようなことを考慮して、暗殺の本当の理由を考えてみると、新撰組の全権を掌握したい近藤一派、そして汚れ仕事も引き受けるお抱えの傭兵部隊を欲しがったものの、尊攘の名の元に独自の活動をし始めた新撰組を持て余してきた会津藩松平容保の思惑が、見事に合致した結果であるといえるでしょう。

芹沢鴨の暗殺をもって果たされた水戸派一掃が、近藤勇率いる試衛館派によって一枚岩となり、佐幕派最前線の武力集団新撰組を作り上げていきます。

結果的には、沈み行く江戸幕府に準じた形になってしまう皮肉を、歴史の流れを知る私たちは感じずにはいられません。

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芹沢鴨という士

芹沢鴨は、天保3年(1832年)、常陸国水戸藩領に生まれました。水戸藩において上席郷士の扱いを受ける芹沢家は、藩主が領内の巡察中に立ち寄ったこともあるほどの家柄でもあります。

水戸藩には、有名な水戸光圀が編纂した歴史書「大日本史」があり、多くの儒学者が集まっていました。儒学や朱子学をベースとした「敬天愛人(天皇を敬い民を愛する)」という思想の「水戸学」が発達し、吉田松陰や西郷隆盛ら幕末の志士に大きな影響を与えた「尊皇攘夷思想」の発信地でもありました。

※尊皇攘夷とは:天皇の指示のもと、将軍を中心として海外の脅威を打ち払う、という思想。幕末期の思想形態は多種多様で、ほかにも「開国佐幕」「尊皇佐幕」「開国討幕」」などがあり、「尊王攘夷=討幕派」と言う単純なことではない。

芹沢鴨が生まれる数年前、水戸藩内で『新論』という、幕末の尊王攘夷論者たちの経典と言われるようになる書物が記されました。著者である儒学者:会沢正志斎が、主君である水戸藩主に、尊王と攘夷をもってしか国内外の政治的危機を乗り越えることができない、という意見を述べた内容のものでした。その過激ともいえる内容により一般の刊行を禁止されてしまいますが、藩内部の同志たちの間で写本され読み継がれてきました。

そして土壌としての尊王攘夷思想が、幕末期の水戸藩にできあがっていきます。

そんな中、混乱する世の中に憂い過激な尊王攘夷論を掲げた「玉造党」が、芹沢家近く玉造郷校・文武館を拠点に作られました。玉造党は「天狗党」の前身です。水戸藩士として尊王攘夷思想の薫陶を受けて育っていった芹沢鴨もまた、「尽忠報国」とこの思想に身を投じていきます。

玉造党は過激な運動や強引な金策などで、幕府や水戸藩から追われる身となり、一派であった芹沢鴨もまた捕らえられました。一度は死罪を言い渡され覚悟したものの赦免され、その後すぐに芹沢は幕府の浪士募集を耳にします。

幕府が上洛する将軍の警護のために浪士たちを募集したのは、文久3年2月のこと。

天皇の指示の下で将軍が攘夷に采配を振るう、というまさしく「尊王攘夷」思想の実現といえる状態です。芹沢鴨は浪士組への参加を決心することで、赦免され生かされた命の使い場所を見つけたはずでした。

雪霜に ほどよく色の さきがけて 散りても後に 匂う梅が香

(攘夷のさきがけとして、私は散っていくだろうが、その思想は後世にも受け継がれていくだろう。たとえ花が散ったとしても、いつまでも残る梅の香のように)

芹沢鴨が、玉造党として投獄され死を覚悟したときに詠まれた辞世の句と言われています。

その思いの通り、芹沢亡き後も彼の信じた尊王攘夷の思想は、新撰組の骨子を成し続けていきます。

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北村美佳子

北村美佳子

投稿者プロフィール

いにしえに想いを馳せて、一人涙し、一人ニヤつく。そんな日本史をこよなく愛するライター。重度の活字中毒でもある。愛読書は梅原猛氏の本。
日本史が好き過ぎて、記事を書きながら悶絶することも多々あるけれど、いくつになっても好きなものは好きだと言える女でいたい、そう願って邁進中であります。

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