真田幸村の生涯が簡単にわかる年表

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波瀾万丈の生涯を遂げた真田幸村こと真田信繁、巷間伝わる逸話の中には後世に軍談物や講釈によって脚色された真田十勇士を率いての活躍など、伝説的なものも多いのですが、ここでは確認できる史料を中心にした年譜を簡単にご紹介していきます。

真田幸村の生涯

永禄10年(1567年)

真田幸村誕生。 父は真田昌幸、母は正室山手殿。兄に真田信之。

昌幸は当時、武田信玄の母方の大井氏の支族である武藤家の養子となり、武藤喜兵衛昌幸を名乗っていました。身分は騎馬15騎、足軽30人を率いる足軽大将であったと伝えられています。

このころの真田家は信濃国小県群国衆で、幸村の祖父にあたる幸綱が一族を統括し、武田信玄の重臣となっていました。

天正3年(1575年)

長篠の戦いにおいて父・昌幸の長兄信綱、次兄昌輝が戦死したため、昌幸は真田家当主となり、幸村も甲府を離れ、城代を務める上野国岩櫃城へ移ります。

天正10年(1582年)

3月11日 織田・徳川連合軍の侵攻によって武田勝頼が一族とともに自決し、武田家は滅亡すると、昌幸は信長に恭順し、上野国吾妻郡・利根郡、信濃国小県郡の所領を安堵されます。

6月 本能寺の変により信長が横死すると、越後の上杉、相模の北条、三河の徳川の間に武田遺領巡る天正壬午の乱が起こり、真田氏も武田の遺臣と遺領を取り込むべく画策します。

天正13年(1585年)

7月15日 武田旧領を巡る混戦の中で上杉、北条、上杉と同盟相手を次々に替えていた昌幸は、最終的に上杉景勝に臣従し、幸村は人質として上杉家に送られます。

幸村は徳川家との第一次上田合戦に出陣し、徳川に属した屋代氏の旧領が与えられています。

小牧・長久手の戦いを経て天下の形成が豊臣秀吉に傾くと、上杉氏は豊臣家を盟主と仰ぎ、人質であった幸村も大坂に送られたため真田家は豊臣氏に臣従することとなります。

天正18年(1590年)

3月 幸村は父・昌幸、兄・信幸とともに小田原北条氏攻略戦参加、真田家は石田三成の指揮下に入り、大谷吉継らと忍城攻めに加わります。

4月 昌幸は上野国松井田城攻めを命じられます。 この松井田城攻略戦が幸村の初陣となりました。

天正19年(1591年)

6月 陸奥では葛西大崎一揆、九戸政実の叛乱が起こったため、北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、引き続いて奥州征伐を実行します。 幸村も、昌幸、信之と共にこれに加わっています。

文禄元年(1592年)

2月 真田家は朝鮮の役に出陣を命じられ、幸村も父、兄と共に肥前名護屋に赴きます。 名護屋での真田家の役目は後備であったらしく朝鮮へは渡海していません。

文禄3年(1594年)

11月2日 幸村は従五位下左衛門佐に叙任されるとともに、豊臣姓を下賜されます。 またこのころ、豊臣家の重臣である大谷吉継の娘・竹林院を正室に迎えています。

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慶長5年(1600年)

7月 豊臣秀吉没後、大坂城に入った徳川家康は、会津の上杉征伐を敢行。 幸村は父、兄とともに関東に向かいます。

同月、豊臣五奉行から、家康討つべしとの連署状が出され、下野犬伏の真田家の陣に石田三成の密使が到着します。
ここで、昌幸、信之、幸村は今後の去就を話し合い、徳川重臣・本多忠勝の婿であった信之はこのまま徳川方に、幸村と昌幸は大坂方に就くことを決して別れます。

9月6日 幸村は昌幸と共に信州上田城に籠り、中山道制圧を目的とした徳川秀忠の大軍を相手に奮戦し、ついに秀忠軍が関ヶ原の合戦に参戦するのを妨げるという軍功を挙げます。

12月12日 9月15日に行われた関ヶ原合戦で西軍が敗北すると、幸村と昌幸は敗軍の将となりますが、信之とその舅の本多忠勝の助力もあって死をまぬがれ、紀伊国高野山麓の九度山に配流されます。

慶長17年(1612年)

九度山幽閉中の幸村は入道して好白と号します。父・昌幸はすでに前年病死しています。

慶長19年(1614年)

10月1日 徳川家康が大坂追討を下令すると、豊臣家は諸国の浪人を集める策を採り、幸村にも密使を派遣して参戦を促します。

10月9日 豊臣の密命を受けた幸村は九度山を脱出、嫡子大助とともに大坂城に立て篭もる一方、信濃の真田の旧臣にも檄をとばします。

12月4日 東軍は幸村が玉造口に築いた出城の真田丸を攻めますが、幸村は鉄砲隊を駆使した巧妙な采配によってこれを退けます。

12月20日 大坂方と東軍の間に和議が成立して大坂冬の陣は終結、幸村父子は内に留まります。

慶長20年(1615年)

2月 徳川方は大坂城の備えを崩すため、真っ先に真田丸を破却すると共に、叔父の真田信伊を使者として幸村の寝返りを促します。 しかし、幸村は恩賞としての十万石の所領、信州一国の大名という甘言にも耳を貸さず、これをはねのけます。

4月6日 徳川家康が再び大坂攻めを断行すると、幸村は決死の覚悟で大坂城に籠城します。

5月6日 大坂夏の陣の転換点となる道明寺の戦いが起きます。 この戦いでは、濃霧のために真田隊の戦場到着が遅れ、後藤又兵衛、薄田隼人正ら大坂方の名だたる将が討たれるという事態になります。

しかし、幸村は鉄砲隊を巧みに操って追撃して来る伊達政宗の先鋒を後退させ、豊臣方の撤退を成功させるという功を立てます。

5月7日 損耗が激しい大坂方が形勢を挽回するには大将豊臣秀頼の出陣しかないと考える幸村は、大助を大坂城に人質として送って秀頼の出馬を乞います。しかしそれは果たせず、死を覚悟の最後の作戦を立案します。

家康本陣の右翼に真田隊、左翼に毛利隊勝永を配し、銃撃と突撃をくり返して敵本陣が孤立した隙に、明石全登隊が横合いから急襲するというこの作戦は、功を急ぐ毛利隊の発砲によって破綻し、幸村は正面突破で家康の首を狙うという強襲を行います。

この結果、家康の本陣深くまで攻め入ったものの、最後には数に勝る徳川勢の反撃を受け、四天王寺近くの安居神社まで撤退したところで、越前松平家の鉄砲組西尾宗次に首級を授けることとなりました。

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