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真田幸村(信繁)の墓はどこにあるのか

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大坂夏の陣で徳川家康の本陣に三度まで攻めかかり、家康の心胆を寒からしめた真田隊。

しかし、多勢に無勢で次第に敗色濃厚となり、ついに四天王寺に近い安居神社に撤退を余儀なくされます。

そこで傷の手当てをしていた真田幸村は、追撃してきた越前松平隊の西尾仁左衛門に討ち取られ、48年の生涯を終えます。

没した後に伝説的な英雄となった真田幸村、その墓はどこにあるのでしょうか。

実は真田幸村の遺骨をおさめた墓というものは存在しません。 その代わりに、全国に供養墓や供養塔があって、今も参詣の人を集めています。

真田幸村の8つの供養墓、供養塔

龍安寺塔頭大珠院(京都府京都市右京区龍安寺御陵ノ下町13)

石庭で有名な龍安寺の塔頭大珠院には真田幸村夫妻を供養する墓があります。 これは、豊臣家の大名で関ヶ原の戦いまでは犬山城主であった石川貞清が建立しました。

関ヶ原合戦後は剃髪して宗林と名乗った貞清は、真田幸村の七女おかねを妻としたことから、幸村の母の竹林院を援助し、竹林院没後に大珠院を菩提所とし、その前に広がる鏡容池の弁天島に墓を建立しました。 現在、大珠院は非公開となっています。

田村家墓所(宮城県白石市福岡蔵本字愛宕山)

大坂の陣後に、阿梅、大八、おかね、阿菖蒲(あしょうぶ)らの幸村の遺児は、伊逹家の重臣・片倉重長に扶育され、阿菖蒲は長じて伊達家臣の田村定広に嫁ぎます。

田村定広は、陸奥国三春の戦国大名だった田村清顕の一族で白石の地に田村一族の墓所を建立する時に、密かに阿昌蒲の父である真田幸村の供養碑も建てました。

自然石を使って墓銘も刻まれていないこの供養碑とは別に「真田左衛門佐源幸村御墓」と刻まれた真田一族の墓もあり、こちらは阿菖蒲の墓と並んで田村家墓所の一隅にたたずんでいます。

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長国寺(長野県長野市長野県長野市松代町)

真田幸村の兄・信之は、徳川家康の重臣、本多忠勝の娘・小松姫を妻としたことなどから、大坂の陣では豊臣方についた父、弟と袂を分かち、徳川方の武将として戦いました。

その結果、信之は信濃国松代藩13万石の大名となり、真田の血筋を現代にまで伝えることになります。

その松代藩真田家の菩提寺である長国寺には、国指定の史跡である松代藩真田家墓所があり、信之の一族だけではなく、幸村と嫡子・大介の供養塔が建てられています。

孝顕寺(福井県福井市足羽)

大坂の陣で幸村の首級を挙げた越前松平家の家臣西尾仁左衛門宗次は、本国帰還後に福井にある孝顕寺に首塚を建立しました。 孝顕寺は越前松平家の藩祖・結城秀康が菩提寺と定めた寺院で、西尾家もここを菩提寺としていました。

首塚とはいうものの真田家家臣らが首を奪還しようとするのを防ぐために、首は別の場所に埋められ、代わりに幸村の鎧袖が埋められたとの伝承があります。

後に真田地蔵として信仰を集めるようになったこの首塚、現在は福井市立郷土歴史博物館に保存されています。

妙慶寺(秋田県由利本荘市岩城亀田最上町)

御田姫(顕性院)は、幸村と豊臣秀次の娘・隆清院の間に生まれた幸村の四女で、大坂の陣後は出羽佐竹家の佐竹義家の弟・宜家の側室となります。

その後、佐竹家のお家騒動によって宜家との間に生まれた重隆が藩主となり、顕性院も藩主の母の立場で真田家の復興に力を尽くします。

顕性院が真田家の菩提を弔うために建立したのが顕性山妙慶寺で、真田一族の供養塔が建立されています。

安井神社(大阪府大阪市天王寺区逢阪)

大坂夏の陣で徳川家康の本陣を奇襲した後、真田幸村は四天王寺近くの安居天満宮、別名安井神社で西尾宗次に討たれたといいます。

このため、安居神社境内には真田幸村戦死跡碑があり、毎年5月5日には幸村祭りが執り行われています。

田原家私有林墓石(鹿児島県南九州市頴娃町牧ノ内の雪丸地区)

大坂の陣の後、真田幸村や豊臣秀頼には大坂から落ちのび、豊臣家再興のために雌伏しているという伝説が生まれました。 そのひとつが薩摩落ちで、島津の軍船に乗って薩摩に逃れ、芦塚左衛門と名乗って揖宿郡頴娃村に隠れ住んだというものです。

この話は、肥前松浦藩主の松浦静山が表した「甲子夜話続篇」によって、世間に広まるようになりました。

一心院(秋田県大館市谷地町)

島津を頼って薩摩に落ちのびた幸村は、さらに秋田に移り住んだという伝説もあります。

これは徳川政権に抵抗していた島津家が恭順したため、身の危険を感じて薩摩を脱出、各地を放浪した後に四女・御田姫の嫁ぎ先の出羽佐竹家に庇護され、信濃屋長左衛門と名を変えて長寿を全うしたというものです。

なにやら源義経が九州落ちに失敗して、奥州藤原氏の元へ向かった話を思い出させますが、一心院に残る墓石には「信濃屋長左衛門事真田左衛門佐幸村之墓」との文字が刻まれています。

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