真田信之・真田幸村兄弟の姉 弟達に敬愛された村松殿の生涯

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真田幸村の兄弟と言えば敵同士に分かれた兄:真田信之の名が真っ先に浮かんでくるという人は多いのではないでしょうか。

しかし、幸村と信之、この二人に敬愛された姉の存在も真田家にとって大きな物だった事は知られていません。

今回は真田幸村の姉、村松殿とはどんな人物だったかに迫っていきます。

真田昌幸の娘として生まれ、小山田家へ嫁ぐ

真田幸村の姉は村松殿と伝えられています。名は於国。1565年、真田昌幸と正室である山手殿との間に甲府で生まれました。

1582年頃に武田二十四将の一人、小山田昌辰の子である小山田茂誠に嫁ぎ、小山田之知(小山田主膳)を産みました。

真田家も小山田家も武田氏に仕える家臣でしたから、武田家の家臣という縁で結婚に至ったと考えられます。

しかし、1582年信濃に侵攻してきた織田徳川連合軍と戦っていた小山田昌辰は高遠城の落城と共に戦死したとされています。

※死に関してははっきりしていない部分があります。

父親と武田氏という主を失った小山田茂誠は真田家に仕える事になります。茂誠が真田昌幸の家老となって、小県郡村松(現在の青木村)を領地として与えられた為、以降の彼女を村松殿と呼びます(越後国村松郷に住んだからという説もあります)

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村松殿を慕う弟達との手紙のやり取り

村松殿は関ヶ原の戦いで東軍西軍に別れた信之、幸村のどちらにとっても姉にあたります。

弟達からは大変慕われていたようで、大阪冬の陣で和睦した後、1615年1月24日に真田幸村は大阪城内の様子と村松殿を気遣った手紙を甥である小山田之知に託しています。

この時、小山田之知は真田信之の家臣として、徳川勢として出陣していました。

手紙の内容には自分と長男(真田大助)が大阪城にいて無事である事、小山田之知とも顔を合わせるがなかなか話をする時間がない事などが書かれ、変わった事はないので安心して下さいとしたためられています。

取り急ぎ書いたとの事であっさりした手紙ではありますが、遠く離れた姉に心配をかけまいとする真田幸村の気持ちが伝わってきます。

小山田茂誠は返礼として鮭2匹を送っており、これに対しても真田幸村は礼状を送っています。

更に幸村最後の手紙と言われている手紙はやはり小山田茂誠と之知に宛てた物であり、姉である村松殿とはもちろん、その夫や息子とも家族ぐるみの付き合いがあったと言えるでしょう。

一方、徳川方についた真田信之も松代の移封された際、村松殿が宛てた手紙に対して、ばたばたとしてしまってこちらからの連絡が遅れてしまったがまたお会いしたいと返信しています。

このように村松殿は弟達にはずいぶんと敬愛されていたようです。

村松殿の晩年とその後の小山田家

村松殿は寛永7年(1630年)にこの世を去りました。

法名は宝寿院殿残窓庭夢大姉と伝えられています。彼女の人生に関しては前述の弟達とのやり取りの他は詳しい事は伝わっていません。

しかし、彼女の夫、小山田茂誠や子の小山田之知を始め小山田家は代々真田家の次席家老を務めています。

その影には松代藩の藩主になった弟:信之の姉への深い信頼があったのではないでしょうか。
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真田家の長姉としての村松殿

村松殿の人生は謎に包まれています。

ただ、真田信之と真田幸村、敵同士に分かれて戦わなければならなかった兄弟のどちらにも慕われていた姉という彼女の立場を思うと大阪の役という戦いはさぞ辛いものだったのではないでしょうか。

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Mana

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投稿者プロフィール

歴史が好き!!の勢いで突っ走る歴史オタクのライターです。
その時代に生きた人々の文化や偉人達の人間味あふれるエピソードに興味津々。鎌倉や京都、全国の史跡を訪ねつつ温泉や美味しい物を楽しむのが何よりの幸せです。
歴史のオモシロ話を読みやすい文章でお届けできるように頑張ります。

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