真田幸村の妻 竹林院 彼女の生涯は英雄を支えた内助の功だった!?

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大阪の冬の陣、夏の陣で活躍した真田幸村。

家康を恐れさせた武勇で知られる彼ですが、実はそれ以前の人生は忍耐の連続でした。

一番の苦境は九度山での幽閉生活ですが、そんな生活の中の幸村を支え続けた妻が竹林院という人物です。

今回は彼女の生涯についてお話したいと思います。

義の人 大谷吉継の娘として生まれて

真田幸村の正室は竹林院という女性であったと言われています。

生年は不明ですが、豊臣秀吉の子飼いの武将であり、石田三成との友情でも知られる大谷吉継の娘であったと伝えられています。

本名を利世、安岐姫とも言われていますが、これは小説などによる創作のようです。

1594年頃に真田幸村と結婚、当時の幸村は長いこと豊臣秀吉の元で人質として生活していたので、その間での結婚であったと考えられます。

秀吉が幸村を気に入り、重臣の娘を嫁がせたといった馴れ初めでした。

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九度山での貧困時代も竹林院にとっては幸せだった

関ヶ原の戦いの後、真田幸村が九度山に幽閉されると竹林院も同行します。

九度山での生活は苦しい物で、真田昌幸・幸村親子は借金を重ねていたと伝えられていますが、ここで活躍したのが竹林院です。

彼女は丈夫で美しい「真田紐」を考案し、それを家臣に行商させて家計の足しにしました。武家の生まれとしては器用で商才もあった女性だったのかもしれませんね。

九度山での暮らしの中で1601年には嫡男:真田幸昌を設け、幸村と竹林院の間には二人の息子と五人の娘が生まれます。幸村は子供達と川で釣りなどをしていたとされています。

九度山時代の真田親子の暮らしを伝える手紙には経済的な困難が記された悲壮な物が多く伝わっています。

ですが、家族の時間といった面から見れば、九度山時代の幸村は子供達に囲まれて穏やかな時間を過ごす事が出来たのではないでしょうか。この隠居生活は竹林院にとっては幸せの時だったのかもしれませんね。

しかし、1614年、家康との関係を悪化させた豊臣家が浪人を募集すると真田幸村は九度山を脱出し、嫡男の幸昌も父に従って大阪城に向かいます。この時竹林院は幸昌に「再び生きて会いたいのは山々だけど、私達のことは案じる事なく、父上様と生死を共になさい」と送り出しています。

まだ、年齢も若い息子を送り出す母親の心境を思うと忍びないですが、それでも武家の妻として母として凛と振舞ったのです。

1615年5月7日、大阪夏の陣で真田幸村・真田幸昌が討ち死にすると、幸村の妻子にも追跡の手が向けられます。京都に潜んでいた竹林院は娘:あぐりと共に再度九度山方面に逃れますが、やがて捕らえられてしまいます。この時に多額の財宝と幸村の形見である来国俊の短刀を持っていた為、彼女が竹林院であると分かったと言います。

しかし、罪に問われる事はなく、以後京都で娘:おかねの夫である石川貞清の保護を受けながら暮らし、1649年に亡くなったと伝えられています。

真田幸村の子供達と竹林院

真田幸村には竹林院の他、4人の側室がいたとされています。堀田氏、高梨氏、三好氏、詳細不明の女性、といずれも名前は伝わっていません。彼女達が幸村の子供を生んだ女性であり、実際は他にも数名の側室がいたと思われます。実は竹林院自身も初めは側室だったが、嫡男を生んだ為正室として扱われたという説もあります。

竹林院には7人の子供がいましたが、側室達の子供も自分の子供同様に可愛がったと伝えられています。

幸村にとっては家庭の問題に頭を悩ます事もない、なんともありがたい妻であったことでしょう。

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英雄を支えた内助の功

竹林院の人物像を指すときに内助の功という言葉が使われますが、苦しい家計を助け、幸村の子供達を等しく可愛がって育ててくれた竹林院は幸村にとってなくてはならない存在だったのではないでしょうか。

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Mana

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投稿者プロフィール

歴史が好き!!の勢いで突っ走る歴史オタクのライターです。
その時代に生きた人々の文化や偉人達の人間味あふれるエピソードに興味津々。鎌倉や京都、全国の史跡を訪ねつつ温泉や美味しい物を楽しむのが何よりの幸せです。
歴史のオモシロ話を読みやすい文章でお届けできるように頑張ります。

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