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真田幸村の最期は? 実は生存説もある!

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「日本一の兵」といわれた真田幸村。

その最期とはどんなものだったのでしょうか。

激闘の末力尽きる

幸村が最期を迎えたのは慶長20年(1615)5月7日の大坂夏の陣のときのことでした。

大坂城周辺の拠点がことごとく徳川軍の手に落ちると、幸村ら豊臣軍の諸将は最後の一手に出ることを決意します。

それは幸村隊が右翼の茶臼山に、左翼の毛利隊が天王寺付近に布陣して一斉射撃と突撃を繰り返し、陣形を崩した上で家康本陣を急襲。家康を討ちとろうというものでした。

徳川軍15万、豊臣軍5~6万という圧倒的な兵力差の中で勝利を収めるための唯一の方法だったのです。

7日正午ついに開戦。真田隊は自軍の5倍に及ぶ1万5000の松平忠直隊を相手に奮戦。

さらに徳川方の浅野長重が寝返ったという虚報に動揺した隙をついて突撃を続けた真田隊は、遂に家康の本陣にたどり着きました。

しかし、奮戦むなしく真田隊は混乱から持ちなおした松平隊に包囲され、幸村はそれ以上の追撃を断念。疲労のため安居神社で休息中のところを松平配下の西尾宗次によって討ちとられました。

敵と斬り結んだとも、黙って首を打たせたともいわれています。享年49。

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最期の地・安居神社とは

幸村が最期を迎えた安居神社は現在も大阪市天王寺区逢坂にあります。

平安時代には、太宰府に左遷される途中、休憩のため菅原道真が立ち寄ったとされています。

幸村は境内の松の木に寄りかかって休息していたといわれていて、境内には「真田幸村戦死跡碑」が建てられています。

命日である5月7日には毎年、真田幸村祭が行われているそうですが、今年は5月5日に行われ、大坂の陣400年プロジェクトも合わさり、多くの人が訪れたようです。

幸村には影武者がいた!?

しかしながら、幸村には生存説が存在します。

しかも、用意周到なもので、冬の陣の和睦後から身代わりを立てていたというのです。

身代わりとなったのは幸村とよく似ているとされた穴山小助という人物です。

この小助という人物は、真田十勇士の一人に数えられていて、実在する武田家親族衆・穴山梅雪の甥とされています。

さらに夏の陣の最後の戦いでは影武者が他にも何人かいたため、戦いの後に家康には「幸村の首」がいくつも届けられたそうです。

その中でも停戦中に幸村として小助に会ったことのある人々の証言で、小助の首こそ幸村の首と考えられました。

さらに幸村に恩がある御宿勘兵衛(政友)が「せめて首を葬ってやりたい」と申し出た際、迷わず一つの首を抱きしめて涙を流しました。家康は「勘兵衛の選んだ首が本物であれば、首を葬った後腹を切るはず」と考え、申し出を許しました。すると、勘兵衛は首を葬った後腹を切って果てたのです。そのため、勘兵衛の選んだ首こそが本物の首であると納得したというエピソードもあります。

幸村はどこに?

では、本物の幸村はどこに行ったかというと、大坂城の抜け穴を使って脱出し、秀頼を守りながら薩摩(現在の鹿児島県)に落ち延びたというのです。

このことは、京ではわらべ歌として「花の様なる秀頼様を、鬼のやう成る真田がつれて、退きものいたよ加護島へ」と歌われ、『真田三代記』にも薩摩に下ったが、翌年10月に吐血して死去したと記されています。

さらには、幸村が巡礼姿で鹿児島から下北半島の恐山に行こうとして、途中立ち寄った秋田県大館が気に入り住み着いたという説まであります。

幸村はここで真田紐や酒を売って生活していたといいます。

大館市の一心院には幸村の墓とされるものがあり、そこには没年として寛永18年(1641)と記されています。

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