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真田幸村に仕えたとされる真田十勇士のメンバー

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徳川四天王、黒田二十四騎、武田二十四将…有名な戦国武将には猛将の家臣がいたとされますが、そのうち真田幸村に仕えたとされる真田十勇士の特徴はほぼ架空の人物であるという点です。

大阪の役では豊臣方として「真田丸」を構築したり、夏の陣では3500という寡勢で家康の本陣に攻め込み、家康を追い詰めたとして現在も人気のある真田幸村ですが、彼に仕えたとされている真田十勇士とはどのような人物だったのでしょうか。

真田十勇士の誕生

「真田十勇士」というのは大正時代に刊行された「立川文庫」ではじめて見られる表現です。

しかしその原型は江戸時代の小説『真田三代記』には登場しており、江戸時代初期の軍記物『難波戦記』以来、幸村は家康を追い詰めたヒーローとして描かれ、人気を博してきました。

明治に入っても「真田もの」とよばれる講談は流行し、その中で講談師たちによって猿飛佐助などの忍術使いが生み出されていったのです。こうした忍者が幸村の家臣として活躍したという発想は、真田氏の領地付近に戸隠流忍術の戸隠の里があったことによるもののようです。

現在もゲームや漫画、アニメといったジャンルで彼らの活躍や人柄について様々なストーリーが描かれています。魔術使いのように不可思議な術を使う忍者というイメージは彼らの活躍からきているのかもしれません。

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真田十勇士のメンバー

猿飛佐助

甲賀流の忍者。信濃(現在の長野県)の鳥居峠の麓に住む郷士・鷲尾佐太夫の息子で、本名・井辺武助。

戸隠の山の中で猿と遊んでいるところ、戸澤白雲斎に見出されてその弟子となったとされています。手で印を結ぶと姿が消え、相手から見えないのでどんな豪傑でもテンテコ舞いさせることができたとか。

幸村の命で天下の情勢を窺うため、清海入道と連れだち、家康の駿府城、または秀忠の江戸城に忍び込み、徳川方の内情を探ったり、京都では石川五右衛門と術比べをしたとされています。弱きを助け、強きを挫くヒーロー。大坂夏の陣の後、幸村とともに薩摩に落ちたとされています。

モデル:三雲新左衛門賢持の子・三雲佐助賢春、猿飛仁助の子孫、伊賀の下忍・下柘植ノ木猿(本名・上月佐助)。

霧隠才蔵

近江の大名・浅井家の侍大将霧隠弾正左衛門の遺児。浅井家が滅亡後、伊賀流忍術の大家・百地三太夫に師事しました。甲賀流の猿飛佐助と忍術比べのあげく幸村に出仕し、大坂夏の陣では電光の如き大活躍をして、徳川軍の大軍を悩ませました。家康の本陣に忍び込み首を掻こうとしましたが、失敗。大坂落城後には、幸村に従い、豊臣秀頼を脱出させたとされています。

モデル:霧隠鹿右衛門

三好清海入道

出羽国亀田の領主。関ヶ原の乱で、徳川秀忠が信州の上田城を攻めたときから、幸村の部下として活躍しました。猿飛佐助等とともに武者修行のために諸国を漫遊し、18貫もの樫の棒を軽々と振り回して、山賊を退治したり、剣士と渡り合ったりして縦横無尽の活躍をしたといわれています。大坂の役では他の勇士らとともに徳川の大軍と奮戦し、壮絶な戦死を遂げました。坊主頭の大男で、力は強いが、どこか抜けたところに、愛嬌があって、好ましい豪傑。「立川文庫」では三好氏出身の破戒僧とされています。

モデル:三好政康(入道名・清海)

三好伊三入道

清海入道の弟。大坂落城の時、兄は腹を切って、自分の首を刀で掻き落として見せましたが、弟のほうは、腹を切りながら、辞世の狂歌を高らかに詠じたといわれています。

モデル:三好政勝(法名・為三)

穴山小介(小助)

武田家旧臣・穴山信君の縁戚とされ、真田幸村と同年で、体つきも容貌も似ていたそうです。関ヶ原の敗戦の後、幸村が紀州九度山に落ちたときには、浪人生活の労苦をともにしましたが、後に真田屋敷を出て姫路に行き、漢方医をしながら諸国の動向を探りました。大坂冬・夏の陣では、幸村の影武者として真田の出丸から六文銭の大旗を風にひるがえし、徳川方の大軍を散々に撃ち破ったといわれ、夏の陣では、「我こそは真田左衛門佐幸村なるぞ」と、大音声を発し、徳川方の勇士を討ち取った末に、家康の本陣に切り込み壮絶な戦死を遂げました。

実在する幸村の家臣・穴山小助(1568-1615年)は穴山信光の長男で名は安治。通称、岩千代、号は雲洞軒。大坂夏の陣において幸村の影武者を務め、戦死したとされています。

由利鎌之介

鎖鎌と槍の名手。初め三河の野田城主・菅沼新八郎の家来でしたが、秀吉が柴田勝家と戦った賤ヶ岳の合戦に真田勢が出陣したとき、幸村に挑戦し、真田勢を悩ませたといわれています。このとき穴山小助と一騎打ちした結果、敗北しそれ以来真田の家臣となりました。幸村が、九度山へ流されてからは、江戸で槍の道場を開きながら家康の動きを探り、大坂冬・夏の陣でも、穴山小助、三好兄弟らとともに活躍しました。

実在する由利鎌之介(1573ー1615) は名を基幸といい、元々真田氏と敵対し、真田昌幸・幸村親子を狙っていたところ、幸村に捕まり、それをきっかけに家臣となったといわれています。

筧十蔵(十兵衛)

種子島銃の名手。豊臣家臣・蜂須賀家の家臣。秀吉に招かれて蜂須賀屋敷を訪れた際、そこに身を寄せていた幸村に心を引かれ、志願して家臣となりました。力も強く、分別もあり、夏の陣後には、幸村の薩摩落ちにも同行しています。

実在する筧十蔵(1573-1615)は、豪胆な性格で針などを使いこなし、大坂夏の陣で徳川方を散々に苦しめたといわれています。 大坂夏の陣で戦死したとされていますが、実態は不明で兵庫の一部地域の筧家には、幸村の九州落ちに同行したと伝えられています。

モデル:筧十兵衛、又は筧金六郎、あるいはその息子

海野六郎(兵衛利一)

信濃の名族滋野一族の宗家である海野家の出身。十勇士中一番の古参で、幸村の右腕。気位も高く、頭も良い参謀格の人物です。根津甚八とともに奥州をめぐって情勢を探り、大坂の陣を戦い抜いて幸村の薩摩落ちに動向しました。また、海野六郎は出雲阿国の歌舞伎踊りが好きで、見に行った先で一緒に踊ったところ、その演出に幸村が感激して、影武者役に任命したという逸話があります。

実在する海野六郎(1571-1615)は海野輝幸の三男で、大坂夏の陣において敵軍にニセ情報を流し、大いにかく乱したと言われています。大坂夏の陣で戦死したという説がありますが、実態は不明。

モデル:海野小平太

根津甚八

滋野三家(海野・禰津・望月)の出身。父と死別した後、海賊に身を投じて、その首領にまでなりました。幸村が秀吉に九鬼水軍の情勢を探ることを命じられ熊野灘に赴いたときに巡り会い、家臣となりました。穴山小助とともに関ヶ原、大坂冬・夏の陣で活躍し、幸村の影武者となりましたが、大坂夏の陣の戦いで、「真田幸村なるぞ」と名のって奮闘した結果、徳川勢に討ち取られました。

実在の根津甚八(1569-1615)は通称、小六、諱は貞盛。 水軍の指揮に長け、大坂の陣で真田幸村の影武者として討ち取られたとされています。

モデル:禰津小六、浅井井頼など

望月六郎(望月卯左衛門幸忠)

爆弾製造が得意。滋野三家の出身。九度山蟄居中、真田屋敷の留守居役を務め、爆弾の製造にあたりました。大坂夏の陣では、根津甚八らとともに幸村の七人の影武者として活躍。最後は大軍に囲まれ自刃しました。

実在の望月六郎(1572-1615)は、大坂の陣で幸村の嫡男・大助の配下となり敵を情報でかく乱させ、さらに武力を行使して徳川方を尼ヶ崎に敗走させた、と伝えられています。大助に殉死したと言う説もありますが、実態は不明。

モデル:望月宇右衛門、望月甚左衛門、望月卯兵衛、望月卯左衛門幸忠など

真田幸村というヒーロー像

真田十勇士も架空の存在であれば、その主である「幸村」も講談により生まれた存在といえます。「真田幸村」は本来「真田信繁」という武将で、彼が生前「幸村」を名乗ったことはありませんでした。

しかし、『難波戦記』が人気になったため本名の「信繁」よりも作中で使われていた「幸村」のほうが有名になってしまったようです。

幸村自身、江戸幕府や諸大名家の史料にその猛将ぶりが記録されるほどの武将であったことは間違いありませんが、彼が他の武将以上に語られ、愛される理由は、家康を寡勢で追い詰めた幸村を持ち上げることで、家康のすごさをアピールしているようにも思われます。

真田十勇士の存在により、徳川、武田、黒田…といった名だたる武将と肩を並べる武将となったような印象さえ受けるのです。

三成や淀が「奸臣」とされた江戸時代に「猛将」として語られた「幸村」という存在。彼も江戸幕府によって作られた一つのヒーロー像なのかもしれません。

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