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真田昌幸は卑怯者として戦国を生き抜いた!?

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「卑怯者」というと、「正々堂々としていない」「臆病」といったネガティブな意味でつかわれることがほとんどでしょう。

真田幸村の父で、真田家を戦国大名として躍進させた張本人である真田昌幸は、当時の人々に「卑怯者」と評されていたというのです。

昌幸は本当に卑怯者だったのでしょうか?またなぜそのように評されるのでしょうか?

裏表があり、臆病で正々堂々としていない?

天正14年(1586)、家康の真田征伐の動きに際し、豊臣秀吉の奉行である増田長盛と石田三成は上杉景勝に対し「真田は表裏比興の者だから成敗を加えられることになった。さだめし家康も出陣されると思うが、あなたの方から真田を助けることのないように」と書き送りました。

さらに翌月に秀吉が景勝に送った書状にも「真田は前の手紙に書いたように、表裏者だから成敗するように家康に命じておいたが、これはひとまず中止することになった」とあります。

「比興」というのは「卑怯」の当て字で、「表裏」とは字の通り「裏表のある」「うそつき」「裏切り者」といった意味です。

「比興」は今でこそ「おもしろく興あること」というポジティブな意味でつかわれますが、この書状の場合、すぐ前に「表裏」とありますから決してポジティブな意味ではなさそうです。

裏表があり、臆病で正々堂々としていない。

随分な言われようですし、もし本当にそうであれば、昌幸にいいイメージはもてません。

なぜ昌幸はこのような評価を受けることになったのでしょうか。

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「表裏比興の者」といわれる理由

昌幸が「表裏比興の者」といわれた理由は彼が臣従する主君をころころと替えたことにあると考えられます。

天正10年(1582)に長年仕えてきた武田家が滅亡すると、武田家を滅亡に追い込んだ織田信長に帰属しました。しかし、その信長も臣従から3カ月後に起きた本能寺の変で天下統一の夢半ばに倒れてしまったのです。

信玄も信長もいなくなった旧武田領をめぐり、北・越後の上杉、南・小田原の北条、西・三河の徳川の3氏がしのぎを削り始めます。

こうした状況を乗り切るため、昌幸は同盟と離反を繰り返すことで、生き延びることから始めました。

武田氏が北条氏と同盟関係にあったことから、一度は北条氏に帰順する態度を示した昌幸でしたが、武田の旧臣が次々に家康に属し始めると、北条に叛いて家康に帰属しました。

その後約3年間、昌幸は家康に属し、北では上杉景勝と、東では北条氏と対抗しました。ところが、秀吉が勢力を拡大してくると家康は北条氏と和睦してしまいます。

家康は北条領として約束した上州に昌幸の沼田領があることから、これの引き渡しを命じました。

しかし、昌幸はこれを拒否。

天正13年(1585)、上杉景勝に和睦を申し入れ、幸村を人質として送ったのです。

このように昌幸はコロコロと帰属を変えてきたことがわかります。

しかし、それは戦国の世を生き残るために当然のことでした。むしろ家臣に甘んじることなく独立して生きていこうとした昌幸の生き方は見事と称賛されるべきものではないでしょうか。

「表裏比興」といわれても

昌幸のこうした生き様は、信玄の奥近習衆を勤めていた時に学んだことではないかと思います。

奥近習衆とは本来世話役を意味しますが、信玄の奥近習衆は武田家の幹部候補生でもありました。そのため、信玄に最も近い場所で信玄の戦略や戦術を学ぶことができました。

昌幸は奥近習衆のときに、城攻めは無理に攻め込まず、寝返りする者をつくること、そのためには忍びを使うことも重要であること、目の前の敵を討つために背後の武将と同盟したり破棄したりすることなどを学んだのです。

まさに「表裏」「比興」な謀略です。しかし、生き残るためには謀略も行わなければならない。

正々堂々と戦うだけが戦国武将としての美学ではないのです。

生き残った者こそが強者であり正義。

そのような時代において「表裏」「比興」という評価は決して悪い意味だけではなく、謀略に長けた一筋縄ではいかない人物というある種の恐れをも含んだ評価といえるのではないでしょうか。

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