薩長同盟を実現した楫取素彦(小田村伊之助)と坂本龍馬の出会い

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幕末の動乱の大きな転機となったのは、それまで宿敵同士だった薩摩、長州の両藩が同盟を結んだことでした。

この薩長同盟に、これを仲介した坂本龍馬の出身地である土佐藩、独立独歩を行く雄藩だった佐賀藩も加わり、薩長土肥の連携で倒幕勢力を結集させたのが、明治維新の原動力となったのです。
薩長同盟という坂本龍馬の構想を長州に伝えるのに功があった人物の一人に、後に群馬県令として日本の近代工業の発展に寄与することになる楫取素彦がいました。

激しい内部抗争に明け暮れた幕末の長州藩

薩摩藩と並んで幕末の討幕運動の原動力となった長州藩は、当初から倒幕を目指していたわけではありませんでした。

そもそも、長州藩主の毛利家は戦国時代に中国地方を一円を支配下に治めていた毛利元就の家柄です。
元就の孫・輝元が関ヶ原の合戦で西軍の総大将に担がれたため、合戦後、徳川政権によって所領を八ヶ国から周防、長門の二ヶ国に減らされた恨みがあります。

しかし、幕末に毛利家の家督を相続した毛利慶親は、開国論者で公武合体策を提唱する長井雅楽を重用し、朝廷と幕府の協力でペリーの黒船来航以来の国難を乗り切ろうとしました。
ところが藩内には吉田松陰を理論的支柱とする尊皇攘夷派も大きな勢力を持ち、公武合体派と尊皇攘夷派が暗闘を繰り広げていました。

万延元(1860)年、桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺されると、老中・安藤信正は幕府の権威を取り戻すために、井伊直弼の公武合体と開国路線を前進させ、孝明天皇の異母妹・和宮と14代将軍・徳川家茂の政略結婚を実現させます。いわゆる和宮降嫁です。

これに反発した長州藩の桂小五郎らは水戸藩と連携して安藤信正暗殺を企てますが、藩内は長井雅楽の公武合体論が主流となり、藩士を参加させるのは不可能な状況となります。
結局、安藤信正襲撃は文久2(1862)年2月に水戸藩の手で行われ、暗殺には失敗したものの坂下門外の変と呼ばれたこの事件で、安藤は老中を罷免され、幕府の権威はさらに失墜することとなりました。

この結果、長州藩内でも尊王攘夷派が勢力を盛り返し、公武合体によって朝廷の権威を損なったとされた長井雅楽は切腹を命じられます。
久坂玄瑞らの尊攘派が掌握すると、長州藩は朝廷に働きかけて幕府に攘夷の断交を迫るとともに、下関海峡を通過するアメリカ商船を砲撃して単独攘夷を決行します。

この長州藩の動きを看過できなくなった公武合体派の会津藩と薩摩藩は、朝廷内の尊攘派を一掃するクーデターを計画。
文久3(1863)年8月18日、これを実行に移します。

八月十八日の政変として知られるこのクーデターによって、尊攘派の公家七人と長州藩兵は京を追われ、長州へと撤退することになります。

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長州藩主の懐刀として活躍した楫取素彦

この長州藩の藩論の転変に翻弄されたのが、長州藩医・松島瑞蟠の次男で藩の儒官小田村家の養子となっていた小田村伊之助でした。

吉田松陰の妹の夫でもあった小田村は、その攘夷思想の理解者であるとももに批判を加える相手でもありましたが、幕末の動乱期には藩主に従って、長州、江戸、京都を行き来し、藩のために東奔西走する毛利慶親の懐刀的存在となっていました。

しかし、元治元(1864)年に長州藩の尊攘派が京都での勢力回復を目指して起こした禁門の変の失敗と、それに続く第一次長州征伐で藩内に幕府恭順派が台頭すると野山獄に投獄されることになります。

長州藩はこのまま公武合体派が政権を掌握するかに思われましたが、高杉晋作らが起こした元治の内乱によって、再び尊攘派が勢力を握り、小田村も慶應元(1865)年に野山獄を出獄できました。
自由の身になった小田村を待ち受けていたのは、長州征伐によって長州から太宰府へと移されていた七卿の三条実美らと連絡をつけるという藩命でした。

この時、小田村は反対派からの身を守るために、主命で楫取素彦と改名をします。
後の群馬県令・楫取素彦の誕生です。

亀山社中で長州を援助した坂本龍馬

この長州藩の動乱を陰で支えていた人物の一人に坂本龍馬がいます。

長州藩による禁門の変の失敗は、坂本龍馬にも大きな影響を与えていました。
このクーデターの参加者の中に、土佐勤王党の一員で龍馬が塾頭を務める神戸海軍操練所の塾生であった安岡金馬がいたことから、海軍操練所は廃止され、龍馬ら塾生の身柄は勝海舟の肝煎りで薩摩藩に託されました。

九州に移った龍馬は薩摩藩や長崎の商人の援助を得て、長崎で亀山社中を結成、薩摩藩名義で購入した武器や軍艦を長州に譲渡するなどの斡旋を行います。
この時、亀山社中が長州藩に渡した武器は旧式のゲベール銃3000挺、新式のミニエー銃4300挺という大量のもので、長州藩の近代化装備に大きな役割を果たします。

これが八月十八日の政変以来宿敵同士だった薩摩藩と長州藩の対立を解消し、後の薩長同盟結成のきっかけともなったのです。

By: gtknj

龍馬の薩長同盟構想を長州に伝えた楫取素彦

七卿落ちで京都を追われ、さらに長州征伐で長州を追われた七人の公家、三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修、錦小路頼徳、澤宣嘉の内、病没した錦小路頼徳と長州を脱出して潜伏中だった澤宣嘉を除く5人は、太宰府の安楽寺天満宮(現在の太宰府天満宮)の宿坊、延寿王院に幽閉されていました。

ここには、西郷隆盛、高杉晋作、中岡慎太郎といった倒幕派の志士が出入りし、坂本龍馬もまたここを訪ねていました。
攘夷派公卿との周旋役を務めて太宰府に赴いた楫取素彦は、ここで坂本龍馬が主張していた薩長同盟構想に触れ、坂本龍馬と会うよう勧める書簡を木戸孝允に送り、ついに薩長同盟の締結を実現させることとなります。

維新後は、政府要職に就くよりも地元で平穏に暮らすことを望んだため、楫取素彦の名前は伊藤博文、木戸孝允といった長州藩志士に比べて知られてませんが、明治維新で楫取の果たした役割は想像以上に大きかったと言えるでしょう。

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