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坂本龍馬が慕った勝海舟の性格とは

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勝海舟は、坂本龍馬の師匠として、龍馬主演のドラマや映画では必ず出てきます。実際に坂本龍馬は、勝の人物に惚れこみ斬るつもりが弟子になったと伝わります。近頃、日本一の軍学者勝麟太郎の弟子になり候と姉の乙女に手紙を書いています。

龍馬が惚れこんだ勝海舟の性格とはどんなものだったのでしょうか。

少年期に睾丸を咬まれて生死の境をさまよう

勝海舟は7歳の時に道で野良犬に睾丸を咬まれ、瀕死の重傷を負います。絶対絶命の危機でしたが、父の勝小吉の献身的な看護で回復しています。ただ、その恐怖のせいで、小さな犬でさえトラウマになり、道で犬に出くわすと顔面蒼白になり震えて動けなかったそうです。

英語辞書を手に入れる為に毎日医師宅に通いつめる

勝海舟は、青年期、これからは英語の時代だと考え、英語の辞書を求めます。しかし、当時の蘭英辞書ズーツハルマは、一揃え600両もしました。今のお金なら数千万円で、貧乏御家人の勝にはとても買えません。ほうぼう探し回ると、赤城という医師がズ―ツハルマを持っていました。勝は、レンタル料30両を払って辞書を写させてくれるように頼みます。

赤城は、「どうせ、長続きするまい」と高を括っていましたが、勝は、雨の日も風の日も毎日、夜中になると赤城宅を訪ねて、黙々とズ―ツハルマを写し続けて、1年掛けて完全に写し終えたのです。この強靭な粘り強さが勝の真骨頂だと言えます。

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伝習所の練習生を自由にさせた懐の深さ

勝が幕府が開いた長崎の海軍伝習所の教官を務めていた頃、練習生が宿舎を抜け出して、遊郭で遊ぶという事がありました。教官達は、これを怪しからんとして練習生を処分しようとします。しかし、それに対して勝は反対意見を唱えます。

「練習生は、勉強の出来る出来ないでお責めなさい、素行で責めるべきではない」

かくして、練習生の処分は見送られたのです。この時の練習生には、後に幕府海軍の指揮官になる榎本武揚もいました。うるさい事を言わずに、生徒の自主性に任せるというのが勝の方針だったのです。

幕府が倒れた後も徳川家を支え続けた勝海舟

江戸城無血開城を成し遂げ、江戸を戦火から救った海舟ですが、彼の苦難は明治に入ってからも続きました。逆臣となった徳川慶喜の名誉回復、職にあぶれた幕臣の就職支援、生活保護、さらには、西南の役で反逆者にされた西郷隆盛の名誉回復。

明治政府でも要職を歴任した勝は、その権力と人脈を最大限利用し、徳川家と旧幕臣達を守り抜いたのです。

非常な短気と根気強さが混ざり合う性格

一方で、勝は、非常な癇癪持ちでもありました。機嫌が悪い時は、家族を家から追い出してしまったり、来客があっても、待たせておけ!と放置したりします。しかし、一方で、勝は万物に優しい性格でもありました。狩りに行ってもわざと鉄砲を外して獲物を取らず庭の草もわざと手入れをせずに虫が飛びまわるに任せていました。

刀の鍔をこよりで縛り剣の達人ながら、生涯人を斬らなかった事でも有名です。このような勝海舟は、幕末の風雲から明治を生き抜き、明治32年に76歳の長寿で死去しました。

最期の言葉は、「これにてお終い」だったそうです。

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