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西郷隆盛が何回も島流しにあった理由とは?

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明治新政府で大きな功績を残した西郷隆盛。彼は49年の人生のうち、2度ほど島流しの刑に処せられています。

それはいったいどのような理由があり、そしてどのようなきっかけで赦されたのでしょうか。

職を免じられ、奄美大島に住まわされる

西郷隆盛は18歳で収税に関する書記の仕事である、郡方書役助という仕事につきます。

そして、農村の苦境を訴えるために西郷は農地改革の意見書を薩摩藩に提出します。これを見た薩摩藩主・島津斉彬は西郷を見込み、江戸への参勤交代に付き添わせ、秘書の役割をさせるなどしてとても西郷を可愛がりました。斉彬と西郷は、徳川慶喜を将軍にし、雄藩を加えた中央集権の下で開国・富国強兵を進めることを目指しました。

しかし、井伊直弼が大老に任じられると、徳川家茂を将軍とし、反対者を弾圧した安政の大獄を引き起こしました。これに反発した斉彬と西郷は出陣の準備を始めましたが、その矢先に斉彬が急死しました。傷心と幕府の追及に耐えかねた西郷は自殺を図りましたが、失敗に終わりました。

この自殺からの回復に1カ月近くかかったため、藩当局は西郷を死んだものとして扱い、幕府の追究をかわし、さらに幕府からの目をそらすために西郷の職を免じて奄美大島に潜伏させることにしました。

つまり、この一回目の島流しは罪(流罪)ではなく、西郷の身を助けるための処置だったのです。

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奄美大島での生活と薩摩藩に召喚された理由

西郷は島についた当初は罪人としての扱いを受け、とても孤独に悩んだといいます。しかし、大久保利通らの書簡や慰問品を受けて情報を入手したり、島の名家の一族の娘である とま(後に改名し愛加那)を島妻としました。

また、元来優しい性格の持ち主だった西郷は、厳しい取り立てに悩まされているサトウキビ畑の農民の窮状を訴え、役人に態度を改めないと直接藩に建言書を書くと言いました。自らの不始末を報告されることを恐れた役人は態度を改め、農民を解放することを約束しました。

そのことや元々病人や老人に自分の扶持米などを分け与えていたこと、島の3人の子どもの教育を頼まれていたことなどから島民にも慕われるようになりました。そして、1860年には長子である菊次郎が誕生しました。

西郷が奄美で生活をしていた頃、大老井伊直弼が桜田門外の変で殺害されるという事件が起きました。井伊の失政を反省した幕府は、このまま幕府だけで国政を運営していくのは無理だとして、朝廷と幕府が力をあわせる公武合体運動に力を注ぎます。一方、薩摩藩は斉彬の異母弟の久光の子である島津忠義が藩主となり、さらに久光も藩主と同等の地位を得ていました。

久光は先に長州藩が京都に乗り出し、朝廷や幕府間で権勢を奮わせているのを見て、自らも公武合体を実現させるために国政に乗り出そうと考えました。久光の重臣であり、西郷の盟友であった大久保利通(この時の名は一蔵)はこの上京計画を実現するために、先代の斉彬の寵臣であった西郷の召喚を久光に申し出、これを受けて西郷は約3年ぶりに鹿児島本土へ戻りました。

島津久光に嫌われ二度目の島流し

召喚を受けて本土に返り咲いた西郷ですが、元々は久光の上京計画に反対していました。

斉彬の時代とはあまりにも状況が違うこと、斉彬に比べて久光は人望がないことなどを理由に上京すべきではないと主張し、久光の不興を買いました。しかし、大久保利通の熱意に負けて協力することにし、久光が出発するより先に「肥後の様子を視察し、下関にて待て」という久光の命を聞き、同志の村田新八と共に薩摩を出ました。

西郷が下関についた時、自分の予期した憂いがあたっていたことを実感しました。久光が上京計画をたてていることを知った脱藩藩士たちが、討幕に動き出したのだと勘違いし、大坂や京都で不穏な動きをしていることを知ったのです。

このため西郷は、このまま久光一行が京や大坂に入ると思いがけないことが起こるに違いないと思い、未然にそれを食い止めようと久光の待機命令を反故にして大坂に向かいました。

大坂についた西郷は激派志士達の京都焼き討ち・挙兵計画を止めるために尽力していましたが、待機命令をやぶったことに久光は激怒しました。

しかも、久光はこの騒動は西郷らが志士を扇動して起こしたものだと言う報告を受けていたのでなおさら怒り、西郷らの捕縛命令を出しました。捕えられた西郷は船で薩摩に送られている途中で徳之島への流罪が決定してしまいました。

徳之島・沖永良部島での生活と赦免・再召喚の理由

こうして初の罪としての島流しにあった西郷ですが、徳之島に渡海中に妻の愛加那が二人目の子である菊草を産みました。

そして、西郷が徳之島について落ち着いた頃、愛加那が二人の子を連れて西郷のもとを訪れ久しぶりに家族との再会を果たしました。しかし、愛加那が来てから数日後、さらに沖永良部島に遠島する命令が下されました。

沖永良部での生活は厳しいものであり、西郷は牢屋に閉じ込められ常に監視された状況に置かれました。高温多湿のこの島での雨ざらしに近い監禁生活は熾烈を極めました。

西郷は必要最低限の水や食料しか口にせず、日々やせ細っていったそうです。しかし、同郷の後輩などの尽力で西郷への処遇は改善され、徐々に健康を取り戻していきました。そして、西郷は島の人々に勉学を教えていたり、一緒に酒を酌み交わしたりしていました。

西郷が沖永良部島でそんな生活を送っていた頃、久光は朝廷から幕府改革の勅許を得て、江戸に入り将軍家茂に幕府改革の朝旨を伝えました。こうして当初の目的を果たした久光が江戸から引き上げる際、久光の行列を横切ろうとしたイギリス人を部下が切りかかり殺害してしまいました。

これが世に言う「生麦事件」ですが、これが後に薩英戦争のきっかけとなったのです。このようなことからだんだんと京・大坂での薩摩藩の世評の悪化と、発言力の低下、さらには人材不足によって久光は西郷の再召喚を命じました。これを受けて西郷は約2年ぶりに鹿児島本土への帰還を果たしすのでした。

Sakura

投稿者プロフィール

天智天皇~称徳天皇朝が好きな一児の歴女ママです。
夢は奈良の明日香村付近に住んで、その時代の古墳やゆかりの地巡りを満喫したいなと思っています。
皆さんに読みやすく、そして分かりやすく面白い文章をお届けしたいです。

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