禁門の変で自害した長州藩士たち

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元治元年(1864)、長州藩は会津藩主で京都守護職を勤めていた松平容保らの排除を目的に挙兵しました。いわゆる禁門の変、または蛤御門の変と呼ばれる事件です。

これは御所の蛤門、下立売門、堺町門が舞台となったことからそう呼ばれています。

幕府側はこれに対し会津藩、薩摩藩を中心として約3200名を投入し、長州藩側に約400人ともいわれる戦死者をだしました。

また、この時の戦火により「どんどん焼け」といわれる大火が起こり、約3万戸が焼けるなどの被害も出ています。

なぜ尊王攘夷を唱える長州藩が御所周辺で戦闘を行ったのでしょうか。

八月十八日の政変

禁門の変のきっかけは八月十八日の政変です。

攘夷を求める孝明天皇は当時の将軍・家茂に妹・和宮を嫁がせる条件として攘夷実行を示していました。天皇は家茂を上洛させ、5月10日をもって攘夷を実行することを約束させます。

長州藩ではこの5月10日をきっかけに、武力をもって外国の勢力を追い払おうと考え、馬関海峡(関門海峡)を通過する外国船に対し、砲撃したのです。

しかし幕府は「攘夷の実行」=「軍事行動」とは考えていませんでした。また、長州藩のこうした動きに同調する藩は出てこず、馬関海峡での砲撃に対する報復を受けている長州を助けようともしませんでした。

こうした状況で長州藩士・久坂玄瑞ら急進的な尊王攘夷論者から「攘夷親征」の実行が画策されます。攘夷親征というのは、攘夷を実行するため天皇自ら東征することを示しています。

孝明天皇は攘夷親征の先駆けとして大和行幸の詔を8月13日に発します。大和(現在の奈良県)の神武天皇陵などに参拝し、そこで攘夷実行を宣下してもらおうというものでした。

しかし孝明天皇はそこまで自分で行動を起こす気はありませんでした。攘夷はしたいけど、それは幕府でしてほしいというわけです。そういった点から見れば、孝明天皇という人物は「佐幕」攘夷派といえるでしょう。

8月18日、御所の各門は会津・薩摩藩兵により固められ、大和行幸の延期が下り、尊攘派公家と長州藩主は処罰され、長州藩は堺町御門の警備を罷免され、京から追放されてしまいました。

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池田屋事件をきっかけに強硬策へ

京を追放された尊攘派の志士たちは起死回生計画を立てます。それは「風の強い日に京の町に火を放ち、その混乱に乗じて公武合体派を暗殺、孝明天皇を長州にお連れする」というものでした。

しかしこの計画は新撰組に漏れてしまい、池田屋にて計画の中心人物であった肥後藩脱藩士・宮部鼎蔵、長州藩士で「村塾の三秀」にも数えられる吉田稔麿ら7名が殺害、20数名が捕縛されてしまいます。

八月十八日の政変に加え、この池田屋事件の悲報が伝わったことで、長州藩では強硬論が強まりました。桂小五郎や久坂玄瑞は慎重論を唱えましたが、それに同意する人はいませんでした。

こうしてで長州藩は「御所に向かって発砲する」という後ろめたさを感じながら、御所の門を固める会津・薩摩藩らと戦闘することとなったのです。

自刃した長州藩士たち

圧倒的な戦力の違いやきちんとした作戦も立てずに戦闘に臨んだため、戦いはわずか1日で決着がついてしまいました。多くの戦死者を出しましたが、敗北を知り自刃した人もいました。

久坂玄瑞

鷹司邸に入り、鷹司輔煕に朝廷への参内に付随し、天皇に嘆願させてほしいと頼みましたが、拒絶されると邸内で自刃しました。享年25。

寺島忠三郎

松下村塾の塾生。八月十八日の政変の後も児島百之助、中島三郎など名前を変えながら潜伏、情報収集を行いました。禁門の変では久坂と行動を共にし、ともに鷹司邸に入り自刃しました。享年21。

有吉熊次郎

松下村塾の塾生。松陰の老中間部詮勝暗殺計画に賛同、松陰が野山獄に投獄された際には周布政之助ら重役宅に押しかけ罪状を問うています。その後も高杉晋作らと外国公使を刺殺しようとしたり、英国公使館焼き討ちに参加したりと、長州藩でも急進的な人物でした。

池田屋事件の際にも会合に参加していましたが、乱闘から逃れ、その悲報を藩に伝えました。禁門の変では久坂と行動を共にし、鷹司邸内で自刃しました。享年23。

阿座上正蔵

松下村塾の塾生の中でも若いほうだったことから、品川弥二郎や馬島甫仙らとともに「年少組」と呼ばれていました。

禁門の変では國司信濃に従い戦いましたが、中立売門で重傷を負い、自刃しました。享年19。

弘忠貞(勝之助)

松下村塾の塾生。八幡隊書記。藩命により勢力挽回をはかる藩兵の鎮静につとめましたが、禁門の変が勃発したため自刃しました。享年28。

久坂の死が与えた影響

維新後、薩摩藩士で禁門の変を率いた西郷隆盛は木戸孝允について「お国の久坂先生が今も生きて居られたら、お互いに参議だなどと云って威張っては居られませんがなア。」と語っています。

多くの戦死者をだした禁門の変でしたが、その後の日本にもっとも影響を与えたのは久坂の死だったかもしれません。

松陰も高杉晋作への手紙の中で「玄瑞の才だけはどんなことがあっても失ってはならない。」と書き記しています。

強硬論が強まる中で慎重論を示した久坂玄瑞。しかしながら、禁門の変での敗北の責任を他人に帰することなく鷹司邸でその生涯に幕を閉じました。

生きていれば内閣総理大臣として彼の名を学ぶこともあったかもしれません。

しかし、実際には久坂のみならず高杉晋作、吉田稔麿ら松下村塾の英才たちは明治の世を見ることなく、幕末の動乱の中に姿を消すことになったのです。

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