黒田二十四騎の生涯とその後

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秀吉の軍師として広く知られるようになった黒田官兵衛。その黒田家の家臣の中でも精鋭24人を黒田二十四騎と呼びます。ここではその中でも更に優れたとされる黒田八虎のうち5人をクローズアップしてその生涯とその後をたどっていきましょう。

井上之房(天文23年(1554)~寛永11年(1634))

通称・九郎右衛門。官兵衛の父・職隆以降、黒田家4代に仕え、小田原征伐、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いに参加しました。

石垣原の戦いにおいて、友である敵方の武将・吉弘統幸を討ったエピソードが有名です。二人のつながりは文禄の役の後。文禄の役での失態で主君・大友義統が改易されたため、官兵衛に招かれ井上之房の家に預けられました。関ヶ原の戦いで大友家再興を狙う前当主・義統に従い西軍につくと、豊後奪還を目指し奮戦しましたが、自軍の劣勢を悟ると、旧知の之房に功を挙げるため、自刃して討たれたといわれています。

その後、長政が筑前国(現在の福岡県西部のあたり)に移封されてからは、黒崎城を築き、長政の後継者争いである黒田騒動でも活躍しました。

寛永11年(1634)死去。墓所は福岡県岡垣町の龍昌寺。

栗山利安(天文20年(1550)~寛永8年(1631))

通称・善助。官兵衛股肱の家臣として厚い信頼を受け、黒田氏の筆頭家老とされました。永禄12年(1569)に初陣で首級を2つ挙げると、その後も義兄弟の契りを結んだ母里一信と共に黒田軍の先手の両翼の大将を担い、勇士として5度、采配をとって6度の巧妙を挙げたといわれています。

官兵衛が豊前中津の領主になると、それまでの200石から5800石加増の6000石が与えられ、さらに関ヶ原の戦いの後に長政が筑前福岡藩に移封されると1万5000石の所領を与えられ、麻底良城主となりました。

死の前日、高齢のため病床にあったが、突然「馬をひけ、鉄砲を用意せよ。あれに敵が出たぞ。あの山に鉄砲を上げて撃たせよ。敵の騎馬が来たら、折り敷いて迎え撃て。わしの采配を見て、慌てず静々とかかれ」と叫びんだかと思うと寝入り、それを5度も繰り返して明け方に没したといわれています。

また、自分が死んだ後に、長政の戦場での軽率な振る舞いを止める人間がいなくなることを憂いていたエピソードからも、死の間際まで、軍陣のこと、黒田家のことを思っていた利安の人柄がうかがえます。

寛永8年(1631)死去。墓所は福岡県朝倉市の円清寺。

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黒田一成(元亀2年(1571)~明暦2(1656))

通称・三左衛門。荒木村重の家臣・加藤重徳の次男として生まれましたが、有岡城の戦いで村重が敗れた際に、牢獄で世話になった恩に報いようと、官兵衛が養子として迎え入れ、長政の弟のようにして育てられました。

天正12年(1584)に岸和田の戦いで初陣を飾ると、その後も四国征伐、九州征伐、朝鮮出兵、関ケ原の戦いに参戦し武功を挙げました。特に、関ヶ原の戦いで石田三成の家臣・蒲生将監を討ち取った活躍は家康にも認められ、長政が一番の功労者として筑前福岡藩を与えられる理由となりました。

一方で、一成の兜の脇立があまりに大きいため、大砲を放つ目当てにされたという逸話も残っています。身の丈六尺(約190cm)の大柄な体型の一成だからこそ、この兜で武功を挙げることができたのでしょう。

筑前入国後は、三奈木(現在の福岡県朝倉市)に居館を構えたため、三奈木黒田家と称されます。

黒田騒動後の島原の乱で家臣たちは、信頼を失墜していた当主の黒田忠之の指揮には従わず、一成に従ったとされ、黒田家における一成の信頼の厚さがうかがい知れます。

明暦2年(1656)死去。墓所は福岡県福岡市の崇福寺。朝倉市三奈木の清岩禅寺。

後藤基次(永禄元年(1560)~元和元年(1615))

通称・又兵衛。幼少のころ父が病死したことで、父の友人であった官兵衛に引き取られました。

朝鮮出兵や関ヶ原の戦いで武功を挙げ、戦後、大隈城(益富城)1万6000石の所領を与えられています。

しかし、如水(官兵衛の法号)が死去すると、長政との不和を理由に、一族揃って黒田家を出奔し、慶長19年(1614)に大阪の役が勃発すると、すぐに大阪城に入り兵の先頭に立って奮戦、秀頼四天王の一人にも数えられました。

乱戦の中で討ち死にしたとされていますが生存説などが諸説残されています。墓所は、鳥取県鳥取市の景福寺、大分県中津市など。

母里友信(弘治2年(1556)~元和元年(1615))

通称・太兵衛。槍術に優れた剛力の勇将で、九州征伐、朝鮮出兵、関ケ原の戦いに参加し、生涯に黒田家一となる76の首級を挙げたといわれています。

元和元年(1615)、死去。墓所は福岡県嘉麻市大隈の麟翁寺。

黒田八虎の死後

栗山利安の子で筆頭家老となった栗山大膳は、長政の後を継いだ忠之が謀反を企てていると幕府に訴え出ました(黒田騒動)。これに対し、井上之房、黒田一成が忠之を擁護し、忠之は無罪となりましたが、大膳は南部藩へ預けられることとなりました。

友信死後の母里家は、寛永15年(1638)に子の左近が領地を没収されて筑前を退去しました。井上家も黒田騒動の翌年に之房がなくなった後、孫の主馬が筑前を出奔し、跡を継いだ五男の内記に跡継ぎがなかったので、領地没収となってしまいました。

黒田家の一門も、官兵衛の弟の三家の子孫が分家や跡継ぎがなく断絶してしまったため、一千石前後の家臣となり、正徳3年(1713)に五家が筋目として中老の次席に家格が定められました。

こうした中で、黒田一成を祖とする三奈木黒田家だけが幕末まで一万石以上の禄高を保ち、福岡藩の重臣としての地位を維持し続けました。

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