遣唐使船の航路 当時の技術で無事に辿り着けたの?

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遣唐使とは、日本が唐に派遣した使節です。

中国では619年に隋に代わり唐が興ったため、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの遣唐使という名称になりました。

894年に菅原道真により廃止されるまで約300年間派遣されていました。

この頃の航海レベルについて

遣唐使船は帆船であり、耐波性はあるが、気象条件などにより、無事にたどり着くことができる可能性は8割程度のものであったそうです。そのため大使と副使は別々の船に乗り、どちらかが乗った船が難破してしまっても、もう一人はたどり着くことができるようにと配慮されていました。

歴史学者である東野治之氏によると、遣唐使船はそれなりに高い航海技術を持っていたが、元日朝賀に出席するため12月にはたどり着く必要があることから気象条件の悪い6月から7月に日本を出港し、気象条件の悪い時期に帰国せざるを得なかった朝貢使という性質が遭難・難破率を高めていたのではないかとされています。

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航海航路と航海期間

遣唐使節は大阪の住吉神社でまず海上の安全を祈り、住吉津から出発し、住吉の細江(現・細江川)から大阪湾に出て、瀬戸内海を経て那の津(現福岡県福岡市)に至りました。

そして、そこからは、630年から665年までは、北路と呼ばれる、北九州から朝鮮半島西海岸を経て遼東半島南海岸から山東半島の登州へ至るルートで航海されました。

しかし、663年の白村江の戦いで日本は朝鮮半島の足場をなくし、さらに唐と新羅の関係が悪化したことにより、このルートでの航海はできなくなりました。

次に採用されたのが五島列島から東シナ海を西進するルートであり、これは南路と言われ、702年に約30年ぶりに再会された時から838年まで採用されていました。

838年に派遣された遣唐使船の翌年の帰路となったものは、山東半島南海岸から黄海を横断して朝鮮半島南海岸を経て北九州に至るというもであったと言われています。

さらに南島路という、薩摩の坊津(現・鹿児島県南さつま市)から出て南西諸島を経て東シナ海を横断するルートがあると言われていますが、これは気象条件により南路から外れた結果だとする説があります。

先ほど記したとおり、唐の元日に行われる朝賀に出席するため、12月には入唐しておく必要があったことから、6月から7月には出発していたと言われています。このことから少なくとも航海期間は陸路も含めて5カ月はかかったとされています。

派遣された人たち

遣唐使船は4隻で編成され、1隻につき100人程度が乗っていたと言われています。702年の遣唐使船では日本と唐の関係が安定していたため、文化を輸入する使節としての役割を十分に果たしていたと言われ、500人を超える大規模な使節団であったとされています。

大使・副使とともに判官や録事、知乗船事などとといわれる役職の者、画家、卜部(占い師)陰陽師、船匠、新羅訳語(通訳)、奄美訳語、射手、音声生などのほかに留学生、留学僧らが乗っていたといいます。

遣唐使に派遣された人物として著名なところでは玄昉、吉備真備、阿部仲麻呂、空海、親鸞などです。

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Sakura

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投稿者プロフィール

天智天皇~称徳天皇朝が好きな一児の歴女ママです。
夢は奈良の明日香村付近に住んで、その時代の古墳やゆかりの地巡りを満喫したいなと思っています。
皆さんに読みやすく、そして分かりやすく面白い文章をお届けしたいです。

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