処刑された後の近藤勇の首は行方不明になっている!?

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新撰組局長・近藤勇。1868年4月25日、新政府軍との戦いに敗れた近藤は板橋刑場で斬首。

彼の首は京都の三条河原でさらし首にされました。しかしその後の近藤の首の行方はわかっていないのです。彼の首はどこに行ったのでしょうか。

近藤勇の最期

1868年3月近藤は大久保剛と改名し、甲陽鎮撫隊を率いて新政府軍と奮戦。しかしこれに敗れ、その後再び大久保大和と改名して隊士を募集しますが新政府軍に包囲されたため、近藤は新政府軍に出頭しました。

一貫して「大久保」という名前を名乗り通した近藤でしたが、近藤の顔を知る者が政府軍側にいたことや、元隊士で御陵衛士をしていた加納鷲雄、清原清が近藤であると見破ってしまったことにより、捕縛されてしまいました。

その後、近藤を尊敬していた坂本龍馬暗殺の首謀者と信じ斬首を求めていた谷干城と薩摩藩とが、近藤の処遇を巡り対立しましたが、結局4月25日、板橋刑場で斬首刑に処せられ、三条河原でさらし首にされたのです。享年35という若さでした。

そして、その後の近藤の首の行方がわかっていないのです。

首の行方

近藤の首を刎ねた横倉喜三次の記した「横倉喜三次覚書」では、さらし首にされたあと東本願寺住職・孫空義天が引き取り、東大谷に埋葬されたと記されています。

また、1937年6月25日の「東京朝日新聞」には近藤の義兄弟・小島鹿之進の四男・誠之進が「京都の清水谷の近くに近藤の墓があり、近土勇首級を埋むと刻まれていた」という知人の見聞を話しています。

また、首については愛知県岡崎の法蔵寺にあるとする説が有力です。三条河原で晒されていた勇の首を旧隊士・斎藤一が持ち去り、京都新京極にある宝蔵寺の住職・称空義天に供養を依頼。しかし義天が岡崎の法蔵寺に転任したため、勇の首もここに埋葬されたとされています。

法蔵寺には「五月初めに斉藤某が土方の命により首を持参。当寺で埋葬して石碑の台座のみ作って土盛りし、自然石を建てた」と伝えられています。昭和33年に宝蔵寺の本山にあたる京都新京極の誓願寺から「近藤の首は末寺である岡崎の法蔵寺に埋葬されている」という書類が見つかっています。

同年豪雨に見舞われた際、土方歳三の名前以下伝習隊員数名の名前が刻まれている台座が出てきたとか。当初は世間の目もあったので、石碑は土で埋められ、無縁仏の様にしていたといわれています。

こうしてみると、首はここ宝蔵寺にあると考えていいような気がしますが、しかしながらこの説には疑問が残されているのです。それは首を奪ったとされる斎藤一は近藤がさらし首にされている時、会津郡の一員として白河付近で官軍と戦っていたと記録されていることです。

首を奪ったとされる人物が違うだけなのか、それともこの説自体フィクションなのでしょうか。

また、福島県会津若松市の天寧寺にも近藤の首が葬られているといわれている墓があります。この墓は三条河原から近藤の首を奪った土方歳三が建立したとされています。

戒名の「貫天院殿純忠誠義大居士」は新撰組の主で京都守護職・松平容保公が贈ったもの。一説には首はなく、近藤の遺髪が納められているだけともいわれています。毎年4月25日の命日には、墓前祭りが開催されているそうです。

 

各地にある近藤の墓

首については法蔵寺の説が有力ですが、胴体が葬られているとされる墓は日本各地に存在しています。

1 龍源寺(東京都三鷹市)

近藤の兄・音五郎と養子・勇五郎が刑場の番人に30両ほど袖の下をつかませ、近藤の首なし遺体を掘り起こして運び、菩提寺の龍源寺に埋葬したといわれています。ここに埋められているのは近藤の胴体のみといわれており、昭和32年に掘り起こした時には脛の長い骨が出土したそうです。

墓の隣には彼の辞世を刻んだ石碑も建てられています。

2 寿徳寺(東京都北区滝野川)

そのまま刑場に埋められた胴体を夜になって寿徳寺境外墓地に埋葬し、元新撰組隊士・永倉新八により墓石が建立されたとする説。墓碑には近藤勇の他、土方歳三や他の隊士の名が刻まれていることから、新撰組の慰霊碑としての意味もあるといわれています。

昭和3年旧会津藩松平家の勢津子姫が秩父宮へ輿入れされたのを機に、朝敵と呼ばれた人々の慰霊のため、この墓石も改修する事になりました。その際、土の中から天保銭一枚と腐って茶色くなった着物の切れ端が絡まった首のない右肩に穴のある骸が出てきたので、お清めをして壷に入れ直して再葬したと記録されています。

史跡改修工事記念碑にも「昭和四年四月十五日建立 近藤勇の胴体以下この墓に埋める」と説明されています。

3 高国寺(山形県米沢市)

さらされた近藤勇の首を、偶然上京していた従兄弟・近藤金太郎が盗み出し、赤羽近くの河原で焼き、紙に包んで米沢に持って帰り、高国寺の近藤家墓地に埋葬したといわれています。この事は金太郎の孫・利三郎が「覚書」として記しているそうです。

4 円通寺(東京都荒川区)

墓石にはは戊辰戦争で新政府軍と戦った幕臣の名が刻まれており、その中に近藤と土方の名も見られることから、供養を目的とした供養墓とみられています。

真相はともかく

日本各地にある近藤勇の墓。おそらくそのすべてがその地域の人たちにとっては「本物の墓」なのでしょう。

武士に憧れた豪農出身の近藤。各地に残された多くの墓の存在は彼が今も昔も多くの人に愛されている証拠なのではないかと、なんだか嬉しく感じます。

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