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なぜ、桂小五郎は木戸孝允に改名したのか?

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長州藩の維新志士・桂小五郎は一方で木戸孝允という名前も有名です。

一般的には幕末期の維新志士時代には「桂小五郎」、明治になり新政府の一員となってからは「木戸孝允」を以て呼ばれている印象を受けます。

なぜ彼は桂小五郎から木戸孝允に改名したのでしょうか。それはいつのことなのでしょうか。(以下、桂小五郎/木戸孝允のことは「彼」と表記します)

多くの名前を名乗った

彼は8歳になるまで「和田」を名乗っています。これは彼が天保4年(1833)に毛利元就の7男・天野元政の血統にあたる長州藩の医師・和田昌景の長男として萩に生まれたことによるものです。

その後「桂」を名乗るようになります。これは幼い頃から病弱だったため7歳で向いの桂家の末期養子となったことによります。

末期養子というのは、死の間際に養子を迎え、お家の断絶を防ぐもので、彼が養子となってすぐ養父・桂九郎兵衛孝古は亡くなっています。その翌年には養母も亡くなり、結局再び実家の「和田家」で暮らしていたようです。

この頃名乗った「小五郎」というのは通称で、彼が33歳の時には「貫治」を、それ以降は「準一郎」を通称として使用していたようです。

また、幕末期には幕府の指名手配から逃れるため、「新堀松輔」「広戸孝助」など10以上の名前を使用していたといわれています。

維新志士多しといえども彼ほど多くの変名をしたことで知られている人も多くないでしょう。

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「木戸」を名乗るようになったきっかけ

変名により多くの姓をなのった彼ですが、「木戸」という姓は長州藩主・毛利敬親から賜った特別なものでした。

蛤御門の変(禁門の変)をきっかけに会津藩による残党狩りが京都で盛んになると、後に妻となる幾松や対馬藩士・大友友之允の助けを借りながら、潜伏生活に入りました。京都での潜伏も難しくなってからは但馬の出石に潜伏していたそうです。

高杉晋作による功山寺挙兵が成功し、藩論が倒幕に向かうと、彼がどこかに潜伏しているらしいことを察知した高杉晋作・大村益次郎たちによって、長州藩の統率者として迎えられました。1866年に坂本龍馬の斡旋で薩長同盟を締結すると、彼は長州の代表として薩摩の小松帯刀・大久保利通・西郷隆盛・黒田清隆らと会談を重ねていきました。

こうした状況で長州藩主・毛利敬親は彼に「木戸」姓を与え、名乗らせました。これは幕府の指名手配者を藩政の責任者にしていると公言するわけにはいかず、「桂小五郎」は行方不明扱いにし、あくまで別人として対応するためといわれています。また、「大村益次郎」という名前も同様の理由で「村田蔵六」から改めたものです。

「木戸」姓を賜った彼は「木戸貫治」を名乗るようになり、36歳からは「木戸準一郎」を名乗るようになります。しかし、「木戸孝允」を名乗るようになるのはまだ後のことになります。

「孝允」を名乗るようになったきっかけ

そもそも、「孝允」というこの名前は7歳で桂家当主を引き継いで以来の諱です。

諱というのは「忌み名」のことで、呼ぶのがはばかられる名前、転じて本名を表す言葉です。現在私たちは一つしか名前を持ちませんが、江戸時代の人は諱を持っており、日常では通称を使うのが普通でした。

しかし、明治に入り、諱と通称を併称することが公式に廃止され、すべての人が戸籍に「氏」と「名」を登録することになったため、彼も藩主から賜ったした「木戸」と諱である「孝允」をつなげて「木戸孝允」を名乗るようになりました。

時期としては、戊辰戦争終了の明治2年(1868)、大村益次郎と共に靖国神社の前身である東京招魂社を建立し、同志たちの追悼・顕彰をして以降のことのようです。

ちなみに、伊藤博文は諱を、板垣退助は通称を戸籍登録したそうです。

By: ume-y

雅号もたくさん

彼の死後は雅号・「松菊」から「松菊木戸孝允」「木戸松菊」あるいは「松菊木戸公」とも呼ばれ、他にも「木圭」「猫堂」「鬼怒」「広寒」「老梅書屋」「竿鈴」「干令」など多くの雅号がある彼。

もはや何と呼ぶのが正しいのか。ここまで呼び方で話題にのぼる人物も珍しいでししょうし、歴史の教科書に二つの名前を太字で紹介されるのも彼くらいかもしれません。彼の友人たちは彼が変名するたびに呼び方を変えていたのでしょうか?

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