楫取素彦(小田村伊之助)とその妻美和子の出会い

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初代群馬県令として群馬県の教育と殖産に力を尽くした楫取素彦。 二度の結婚をした楫取の妻は二人とも吉田松陰の妹でした。

姉の死後、楫取素彦に後妻として嫁いだ美和子は、30年にわたって楫取素彦の妻として夫を支えて生きます。

二人はどのようにして出会い、また夫婦の契りを結んだのでしょうか。

楫取素彦の最初の結婚

初代群馬県令・楫取素彦とその妻美和子が結婚に至るには長い道のりがありました。 それは、楫取が美和子の兄である吉田松陰と出会ったことに始まります。

長州藩藩医であった松島瑞幡の次男に生まれた素彦が、萩藩の大組に所属する藩士で明倫館の儒官を務める小田村吉平の養子となり、小田村伊之助と名乗っていたころのことです。

嘉永4年(1851年)、小田村家の家督を継いだ素彦が長州藩江戸藩邸に詰めていた時、長州から遊学のために江戸に出て来た吉田松陰と出会います。素彦23歳、松陰22歳でした。

これが縁となって素彦は嘉永6年(1853年)に松陰の妹で美和子の姉にあたる寿子と結婚します。

幕末の動乱を乗り切った素彦は、明治9年(1876年)から初代群馬県令の任に就きますが、任期中、妻の寿子が病を得て亡くなってしまいます。

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杉美和子の最初の結婚

一方、長州藩の下級武士であった杉百合之助の四女として生まれた美和子は、安政4年(1857年)、兄の吉田松陰門下で高杉晋作とともに松門の双璧と呼ばれた久坂玄瑞に嫁ぎます。玄瑞の才を評価する松陰の強い薦めがあってのことといいます。

それ以前に美和子は、尊王攘夷の僧として知られる妙円寺の月性和尚に、桂小五郎の妻に推されたことがあります。また、久坂玄瑞も当初はこの結婚に乗り気でなく、美和子の容姿を理由に断ろうとしたところ、松下村塾の中谷正亮に見かけで妻を選ぶのかと叱責されて結婚を承諾したという逸話があります。

玄瑞18歳、美和子15歳という若すぎる結婚だった上に、勤王の命を懸ける覚悟だった玄瑞にしてみれば、結婚という枷は避けたいものだったのでしょう。

玄瑞と美和子の間には子供がなく、楫取素彦の次男・粂次郎を養子に迎えます。 しかし、元治元年(1864年)の禁門の変で玄瑞が自決したため、美和子は21歳で未亡人となってしまいます。

その後は藩主である毛利家に奉公し、毛利元徳の正室・安子の女中として長子・興丸のちの毛利元昭のお守り役などを務めて明治を迎えます。

素彦と美和子の結婚

明治16年(1883年)、松陰の母・滝の強い勧めもあり、美和子は久坂家から実家の杉家に戻り、久坂美和子ではなく、杉美和子として楫取素彦に嫁ぐことになります。

もともと、素彦が県令職に就いた直後から家政の手伝いや、のちには寿子の看病のため、美和子はしばしば群馬の楫取家を訪れていたため、これは自然な結びつきといえました。素彦54歳、美和子38歳の時のことでした。

明治20年(1887年)、幕末から明治にかけての長年の働きが認められ、素彦が男爵に叙せられます。美和子は思いもかけず男爵夫人として後半生を生きていくことになったのです。

明治26年(1893年)、中央の官職を辞した素彦は美和子とともに故郷の山口県に戻り、三田尻(現在の防府市)に居を構えます。 それから亡くなるまでの約30年間、素彦と美和子は仲むつまじく暮らしたといいます。

大正元年(1912年)8月14日、素彦は84歳で天寿を全うします。 美和子は夫の菩提を弔いつつ、10年後の大正10年(1921年)に逝去。享年78歳でした。 美和子は素彦と共に防府市の大楽寺墓地に眠っています。

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