各界で才能を発揮した楫取素彦(小田村伊之助)の子孫と一族

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楫取素彦の家系には幕末から明治にかけての改革期に名を馳せた名士が多く見られます。

ここでは幕末から現代に至る楫取一族の華麗な系譜を追ってみることにしましょう。

楫取素彦とその縁戚

長州藩主の懐刀的存在だった素彦本人はもちろんのこと、実の兄と弟もまた憂国の士でした。

兄の松島剛蔵は、勝海舟とともに長崎伝習所で航海術を学び、初代の長州藩海軍総督となった人物でした。剛蔵は後に高杉晋作、久坂玄瑞らと共に御楯隊を結成、英国公使館焼き討ち事件や、下関戦争でも主導的役割を果たします。 しかし、禁門の変後の第一次長州征伐で藩内を俗論派が掌握すると捕らえられ、高杉晋作の功山寺挙兵の直後に処刑されるという無念の最期でした。

弟の小倉健作は、楫取素彦とともに江戸で吉田松陰と校友を結び、松陰の東北出奔脱藩事件や下田密航未遂事件でも尽力した人物です。
明治維新後は教育者として腕を揮い、群馬県師範学校、太政官修史館などに職を得ます。晩年は毛利氏の史料編纂に当たるなど、武の人だった剛蔵に対して文の人として生涯を終えました。

また、楫取素彦の最初の妻である寿(久子)と二番目の妻である文(美和子)は、ともに吉田松陰の妹であり、さらに文の前夫は松陰の愛弟子の久坂玄瑞でした。

楫取素彦自身も群馬県令としての任期中は、殖産興業や教育に力を入れ、群馬県を「東の群馬、西の岡山」と賞される教育県に育て上げた功績で、今も群馬県の人々から群馬の礎を築いた恩人として尊崇を受けています。縁戚にこうした偉人が居並ぶ楫取素彦の子孫に、歴史に名を残す人材が現れるのも理の当然というべきでしょう。

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小田村家を継いだ長男希家

楫取素彦は長州藩藩医松島家の出身でしたが、幼少時に藩の儒官であった小田村家の養子となり、小田村伊之助を名乗ります。 幕末に主命によって小田村の名を楫取に改めた素彦でしたが、長男の希家にはそのまま小田村の姓を名乗らせます。

この小田村希家の養子となったのが、東京帝国大学工学部機械工学科を恩賜銀時計拝受の優秀な成績で卒業した小田村有芳です。有芳は後に磯村工業所(磯村産業)の会長を務めるなど実業界で活躍します。
有芳の妻は楫取素彦の次男・道明の三女の治子でしたから、有芳は養子ながらその子孫には楫取素彦の血が流れていることになります。

社団法人国民文化研究会の理事長や亜細亜大学教授を務めた小田村寅二郎は有芳の次男、大蔵官僚出身で拓殖大学第16代総長を務めた小田村四郎は有芳の四男にあたります。

六氏先生と讃えられた次男道明

兄の希家に代わって楫取家を継いだのは素彦の次男・道明でした。 道明の生涯もまた叔父の吉田松陰に劣らぬ壮烈なものとなりました。

日清戦争後の日清講和条約で台湾の割譲を受けた日本政府は、台湾総督府を設置すると直ちに台湾の教育改革に取り組みます。
日本の音楽教育の父と呼ばれ、東京音楽学校校長も務めた伊沢修二は、明治28(1895)年、台湾総督府民政局の学務部長心得に任ぜられ、選抜された7人の有能な教師と共に台北市内、士林芝山巌に芝山巌学堂という学校を建設します。

悲劇が起きたのは伊沢と教師の山田耕造が一次帰国をしていた翌年の元日に起きます。
新年祝賀のため台湾総督府に向かった6人の教師が、清朝残党の反日武装ゲリラに襲われて全員が惨殺されたのです。

伊沢と7人の教師たちは、ゲリラが台北奪還を狙って不穏な動きをしている事を熟知していました。しかし、武装などをしていたのでは現地の人の理解を得ることはできない、と伊沢たちは死を覚悟の上で教育に身を捧げていたのです。

100人以上のゲリラに襲われた6人は、臆することなく教育の重要さを説きますが、ゲリラはそれを聞き入れることなく6人を殺害してしまいます。
その6人の殉難教師の中に楫取素彦の次男、道明がいたのです。

犠牲となった6人は六氏先生として台湾の教育者の鑑と讃えられ、日本統治前には0.5%だった台湾児童の就学率が終戦前後には70%にまで上昇し、識字率も90%を越えるまでになりました。

道明の犠牲は決して無駄ではなかったといえるでしょう。

楫取素彦の孫たち

悲劇的な最期を遂げた楫取道明には、公武合体派の公家として和宮降嫁に力を尽くした千草有文の子で、維新前後に活躍した千草有任子爵の娘・美寿子との間に、五男二女がいました。

有任の娘の任子は明治天皇の側室として二皇女を生んでいるので、道明の子供たちは天皇家ともつながりがあることになります。

五人の男子の内、長男の榛太郎は、祖母である久子の前夫・久坂家を継ぐために養子となり、久坂榛太郎を名乗ります。
榛太郎の下には、三郎、四郎、公弼、倉之丞の四男子と刀美子、治子の二女子がいました。
この内、治子が小田村有芳に嫁いだのは前述の通りです。

男爵家を継いだ三郎の家系

男爵家としての楫取家を継いだのは三男の三郎で、鉄道院の技師の任に就いていました。なお、当時の技師はエンジニアのことではなく、内閣の任命になる高等官を意味しています。

三郎の長男・松若は戦後の昭和21(1946)年、父の後を継いで男爵を名乗りますが、翌年の日本国憲法施行によって家族制度が廃止されたため最後の楫取男爵となったのです。 松若は戦後は中小企業振興事業団理事を努めています。

松若には二男二女がありましたが、長男の能彦は博報堂第一営業局局長代理の要職に就くなど、楫取素彦の系譜は今なお生き続けているのです。

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