加藤清正の子孫は改易後 江戸時代をどう過ごした!?

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豊臣秀吉の親戚であったとも言われ、子飼いの家臣でもあった加藤清正。

大坂の陣がおこる前には亡くなりましたが、その死には暗殺説までささやかれました。

清正の死後、その子孫はどうなったのでしょうか?

加藤家改易の理由

清正の死後幼くして、11歳で家督を継いだ息子・加藤忠広は藩の政治体制としては重臣の合議制という形となったものの、重臣をうまくまとめきれずに御家騒動が絶えませんでした。

それが原因で、幕府から2度に渡って裁断を受けることになります。それでも御家騒動を治めることが出来なかったために改易となったと言われています。

表向きには、幕府の許可を得ずに息子を帰国させた法度違反となっていますが、3代将軍家光の将軍権力を確立するために標的になったとも思われます。

また家光の弟・忠長と親交があったため、忠長を陥れるために利用されたという説もあります。

どちらにせよ、幕府から見てもともと豊臣家恩顧の家臣であった加藤家が、目障りだったということですね。

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改易後の加藤家

加藤家の当主であった忠広は、出羽庄内藩主:酒井忠勝にお預けの身となりました。その後、出羽丸岡に忠広1代限りの1万石の所領が与えられ文学や音曲を親しみ、自由に暮らしていたとされています。

幕府に陥れられ、しかし反旗を翻す訳にもいかず、ただ遊び暮らすしかなかった哀れな人生が浮かび上がります。でも、忠広にとっては、その方が気が楽だったかもしれませんね。

忠広の子どもには、息子2人・娘1人がいました。嫡男:光広は、改易の理由ともなったという家光の弟:忠長へ加担したとして、飛騨高山藩主:金森重頼へお預けとなり、1年後に病死(自殺とも、毒殺されたとも言われています)してしまいました。

また、次男:正良は、母親と真田氏へお預けとなっていましたが、父:忠広の死後自害してしまいました。これで加藤家の後継者はいなくなり、領地は幕府に没収されました。

1人残った娘は父の死後、旗本阿倍正重へ嫁ぎますが、32歳の若さで亡くなったとされています。

加藤家は断絶したの?

公には忠広の子どもは、息子2人・娘1人ですが、出羽で2人(息子1人・娘1人)の子どもをもうけたとされています。

そのうち息子の消息は不明ですが、娘の子孫は5000石相当の大庄屋・加藤家として存続しました。そのため、明治時代に加藤家の屋敷へ明治天皇が行幸するという栄誉にあずがっています。しかし、この家系の最後に継いだ加藤セチさん(日本人の既婚女性として初の理学博士号取得者)が亡くなり、加藤家の本家は断絶しました。

ただ、加藤家の分家やそのほかの子孫は、山形県を中心に全国に残っています。

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未來

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投稿者プロフィール

縄文時代~江戸時代までが大好きな独身歴女です。
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