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二人の天才仏師 運慶と快慶の関係は師弟関係?

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東大寺南大門にある、凄まじい形相をした二体の仁王像。

南大門に向かい、左側には口を開けた「阿形(あぎょう)像」、右側には口を閉じた「吽形(うんぎょう)像」が、世に悪さ為す敵に睨みを利かせています。

武士の世が始まるのと共に隆盛した「慶派」の作品として知られ、世界遺産ともなっているこの仁王像。「慶派」のなかでも天才の名高い運慶と快慶の合作と言われています。

躍動感のある衣と筋骨隆々の体つき、ギリと眉を上げた憤怒の表情が作るリアリティは、見るものに畏怖を与え続けています。

今回は、仏教建築界に革命を起こしたといわれる天才仏師、運慶と快慶に迫ってみましょう。

運慶と快慶 2人はどんな関係?

六世紀半ばごろに日本に仏教が伝わり、日本で「像」がつくられ始めたのは飛鳥時代。

それ以降さまざまな製法で仏像は作られていきました。

金属を溶かして作る金銅仏、造形のしやすさから粘土を使った塑像や、高価でも強度と軽さが適えた脱活乾漆技法での仏像、一本の木を彫り上げた一木造り。

そして、平安時代後期に完成された、複数の木材を組み合わせて作られる「寄木造り」によって、これまでとは違う、繊細で複雑な表現と人に似せたリアリティ、仏像の大型化が可能になりました。

その後寄木造りの製法確立に伴い、大仏師を中心に小仏師が配置され組織的な分業性に特化した仏所、いわゆる仏像制作工房ができました。

仏師の租と言われる定朝の『定朝様』が完成し、隆盛を誇ります。

ときは平安末期。

空海と最澄が輸入した密教の文化が栄えたこと、仏さまが治めて時代が終わる「末法思想」の広がり、そして源平の争いで焼かれ荒廃した多くの寺院の復興といった要因が重なり、仏師たちの活躍の場が多くありました。

仏師「定朝」の流れから、京都で活躍した「円派」「院派」、奈良で活躍した「慶派」とおもな仏師の派が分かれました。

やがて、武士の時代である鎌倉時代に突入すると、仏師、及び工房への発注者が、貴族から武家へと様変わりし、ダイナミックで写実的な作風の「慶派」が、武士たちに好まれ始めました

定朝の直流をくむ「成朝」と同時期の傍系の「康慶」がいます。「康慶」と弟子であり息子の「運慶」とその兄弟弟子たちが盛り上げたのが「慶派」でした。そこには快慶がいて、運慶は快慶の兄弟子に当たります。

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二人の人物像に迫る

運慶

運慶は、1186年、平家が滅亡したその直後に北条時政の発願(依頼)で、願成就院の阿弥陀如来像、不動明王、毘沙門天などを作り始めています。その時、運慶30歳。

北条時政は、後の鎌倉幕府の立役者源頼朝の妻北条政子の父です。その縁からできた鎌倉幕府との繋がりが、慶派が大いに活躍できたベースとなっています。

願成就院の毘沙門天は、当時の北条時政が討伐しようとしていた奥州方面を睨み、鋭く射貫く様な玉眼の迫力は逞しい武将姿と相まって、運慶の才能を後世に伝えています。

平安貴族に好まれた定朝様の気品を受け継ぎつつ、奈良時代の彫刻、宋の様式なども積極的に取り入れ、力強く写実的で、また人間味の豊かな仏像を多く作り上げました。

男性的ともいえる力強い表情、さまざまな文様の衣文、肉厚で迫力のある身体。そんな運慶の作品は、勢いを増しつつあった武士たちに大いに受け入れられました。

快慶

一方の快慶もまた、慶派を代表する仏師として活躍しています。

代表作と言われる「醍醐寺三方院・弥勒菩薩座像」「浄土寺・阿弥陀三尊立像」「石山寺・大日如来座像」などをはじめ、現存するものが非常に多く、はっきりと快慶作とされているものは40件近くもあると言われています。

快慶の特徴とされる、利知的な表情と緻密で絵画的な衣文、そして慶派特有の玉眼を持った仏像たちは、静謐な美しさを湛え、見るものの心に直接せまる感動があります。

自らも、浄土宗の信者で「アン阿弥陀仏」(アンの表記は梵字)と自称するほどで、実際多くの阿弥陀如来像の作成をしています。

運慶が、彫技を尽くしてリアリティを映す仏師であるなら、快慶は、自身の深い信仰にも元着いた、精神世界をも表現するタイプの仏師といえるでしょう。

共作と言われる作品

先述した『東大寺南大門・仁王像』は長い間、「阿形像は快慶作、吽形像は運慶作」と言われてきましたが、1988年の硬い修理の際、像内から制作に携わった仏師たちの名前などが書かれた納入経などが発見され、「阿形像は運慶と快慶、吽形像は大仏師である定覚と運慶の長男湛慶」ということが、分かりました。

運慶はその時40代後半で、現場監督のように一門を指揮して制作にあたったといいます。

この仁王像、全長は約8.5メートル、重量は4トンもありますが、作成日数はたった二ヶ月ほど。

3000もの部品を組み合わせた寄木造りで、慶派一門の非常に機能的で統制のとれた分業スタイルが確立されていたことがうかがわれます。

ほかにも、快慶の作とされる『東大寺・僧形八幡座像』は、運慶もその作成に小仏師と参加したと言う説もあります。

運慶・快慶、それぞれの弟子たちも、それぞれも仏師として名を残し、工房としても慶派一門は強いつながりと独特の特徴ある作風を世に広め、日本の仏教美術に革命を起こしました。

北村美佳子

投稿者プロフィール

いにしえに想いを馳せて、一人涙し、一人ニヤつく。そんな日本史をこよなく愛するライター。重度の活字中毒でもある。愛読書は梅原猛氏の本。
日本史が好き過ぎて、記事を書きながら悶絶することも多々あるけれど、いくつになっても好きなものは好きだと言える女でいたい、そう願って邁進中であります。

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