戦国のイケメンおぼっちゃま 宇喜多秀家のモテ人生

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備前美作57万4,000石の大大名で五大老の一人だった宇喜多秀家ですが、関ヶ原の戦いで敗れ八丈島に流されてしまいます。

しかし、彼はその肖像画からもイケメンの雰囲気を醸しだしており、モテモテエピソードもあるとされています。

そんな彼がどんな風にモテモテだったのか見ていきましょう。

イケメン貴公子

宇喜多秀家は1572年、宇喜多直家の次男として生まれました。

母は「美作一の美女」と言われた円融院(名をお福とする説もあるが、現在は不明とされています)。

円融院は元は三浦貞勝に嫁いでいましたが、貞勝が自害した後に直家に見初められました。

一説では秀吉の側室的な存在だったとも言われています。

秀家はこの母の血を受け継いだのか、肖像画によると色白で目鼻立ちがはっきりとした顔に描かれています。

秀吉は初めて秀家に会った時、その美貌に驚いたと言います。また信長も「備前から来たあの子はまことに涼やかである。よくよく大事にせよ」と秀吉に命じたと言います。

秀家が9歳の頃に父が病死すると、1582年には織田信長の計らいで家督を継ぐことになりました。

そして11歳の時、信長が横死した本能寺の変の後の、所領安堵によって備中東部・美作・備前を与えられ、大大名となりました。

秀家の身長は170cmとされていますが、これは後年、秀家の着ていた鎧から推測されたものです。

平均身長が156cmだった当時からすると結構な長身ですね。

上記のことから秀家は、現代風に言うと高ルックス・高収入・高身長のいわゆる3高だと言えます。

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豪姫からの愛

秀家は幼名は八郎といいますが、元服した際、可愛がられていた秀吉から一字賜り、秀家と名乗るようになりました。

秀吉に寵愛された秀家は、秀吉の猶子となり、14歳の時に前田利家の娘で秀吉の養女となっていた豪姫と結婚し、正室としました。

豪姫は秀吉とその妻の北政所に寵愛されており、秀吉に「豪が男なら関白にしてやったのに」とまで言わしめたほど可愛がられていました。

その豪姫と結婚させてもらえるということは、秀家も秀吉の相当なお気に入りだったことがわかります。

豪姫は5人の子を産み、秀家が八丈島に配流になってからも、再婚はせず生涯秀家を愛し続け、八丈島に援助物資を送り続けました。

また、秀家はその風貌から女性にモテたらしく、秀家が秀吉を訪ねて大坂城に来る度に、城内の女性がざわついていたと言います。

秀家の性格

生まれながらにしてお坊ちゃまだった秀家。一説では穏やかな性格であったと言います。

父の直家は病床についた時に「私が死んだら息子をお願い致します」と秀吉に頼んだほど父親に溺愛されていました。

一方、後の養父となる秀吉の影響からか、派手好みであったと言われています。

鷹を100匹、その世話人300人を養っていたそうで、鷹の餌のために領民に飼い犬を差し出させたと言います。

また、自分の豪奢な生活を支えるために、領民には重税を負わせました。

この秀家の素行の悪さが、1599年に起こった宇喜多家お家騒動である「宇喜多騒動」の原因の一端とされています。

しかし、信長や秀吉に寵愛され、豪姫にも生涯愛し抜かれ、お家騒動の時も敵方の榊原康政らの手を借りている(最終的には徳川家康の裁断を受けて内乱は終結した)ことから、他人に好かれる魅力があったのでしょう。

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投稿者プロフィール

天智天皇~称徳天皇朝が好きな一児の歴女ママです。
夢は奈良の明日香村付近に住んで、その時代の古墳やゆかりの地巡りを満喫したいなと思っています。
皆さんに読みやすく、そして分かりやすく面白い文章をお届けしたいです。

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