関ヶ原の戦いに敗れた後の宇喜多秀家の八丈島での生活ぶりとは
豊臣秀吉の家臣で、五大老の一人であった宇喜多秀家。
彼は関ヶ原の戦いで西軍についた後、八丈島に流されましたが、その島での生活はどのようなものだったのでしょうか。
関ヶ原の戦いの後
石田三成とともに関ヶ原の戦いでは西軍として家康と戦った宇喜多秀家。
関ヶ原の戦い後は備前(岡山)57万4,000石の所領が改易され、秀家は伊吹山山中に逃げ込みました。
その後、落ち武者狩りの矢野五右衛門に遭遇しますが、哀れに思った五右衛門によって匿われます。
そして、薩摩国の島津義弘を頼って落ち延びましたが、「島津義弘が宇喜多秀家を匿っている」という噂が流れ、幕府の追及が激しくなると、義弘の子の忠恒によって身柄を家康に引き渡されました。
忠恒や前田利長(前田利家の子で秀家とは縁戚)の嘆願によって死罪は免れましたが、八丈島に流刑となりました。
八丈島の歴史
平安時代に伊豆大島に流罪になった源為朝がこの地にたどり着き、自害した伝説が残っています。
しかし、公式に八丈島に流された者は秀家が最初で、江戸時代は罪人の流刑地となりました。
最後の流人は1826年に殺人の罪で流された近藤富蔵という人物です。
八丈島での暮らし
秀家の正妻の豪姫(前田利家の娘・豊臣秀吉の養女)と一人娘を実家に帰し、長男・次男とともに八丈島に流れ着いた秀家。
名前は名字を浮田、号を久福と改めました。
流人とはいえ、高貴な身分から他の流人よりも厚遇されていたと伝えられています。
前田家に戻った豪姫は、家人や専属の医師も八丈島に送り、隔年で70俵の米や金銀、食料、衣服、衣料品なども送り続けました。
秀家は豪姫や家臣であった花房正成らの援助を受けて、実に50年もの間この地での流人生活を送りました。
そして1655年、八丈島で生涯を終えました(享年84)。関ヶ原を戦った大名の中では最も長生きをしました。
島での暮らしについての逸話
義実家からの物資があったとはいえ、厳しい島での生活。
こんな逸話が残っています。
八丈島の代官に飯を二杯所望し、三杯目はおにぎりにして家の者にお土産にすることを頼んだ。
嵐のため八丈島に避難していた福島正則の家臣に『広島の酒を一樽所望したい』と願い出た。
秀家の子孫のその後
一緒に流罪となった長男と次男の子孫が血脈を伝え、後に分家3家が起こっています。
秀家の子孫は、前田家の援助を受けながら秀家の血脈を伝え(前田家は秀家が亡くなった後も援助を続けていた)、明治維新後の1869年になってようやく赦免されました。
その後は東京本土に戻り、板橋宿の加賀藩下屋敷跡に土地を与えられました。
八丈島に残る秀家の墓は、赦免から数年後に島に戻った一部の子孫によって、現在も守られています。
秀家の墓は、現在では東京都の文化財に指定され、島の観光名所となっています。