上杉謙信からしたら、織田信長は弱く容易い相手だった!?

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戦国時代を彩った武将たちは、同盟とその破棄を繰り返しながら天下取りを狙っていました。

その中でも、運命のライバルとも言うべき関係が生まれたり、犬猿の仲と評されたり、その人間模様は知れば知るほどに面白いものです。

例えば、武田信玄と上杉謙信のライバル関係。例えば、織田信長を中心とした、その後の日本に影響を与えていく武将たちの存亡をかけた戦い。

特に「軍神」と呼ばれた上杉謙信、「第六天魔王」と呼ばれることもある織田信長、彼らの存在感と華やかさは他の追随を許さないと思います。

そんな2人の生きていた年代は、重なっている部分があるんですが、接点はあったんでしょうか。

それは果たしてそれは合戦の場だったのでしょうか?

信長と謙信の関係性

信長と謙信の関係性は、簡潔に述べると「最初は同盟、後に敵対」といったところです。

同盟関係(1572年頃~1575年頃)

謙信が隆盛をきわめていた当時、最大のライバルは武田信玄でした。信玄は謙信と戦いながらも、信長攻めにも乗り出しており、2人は共通の敵として信玄を認識し、同盟関係を築いていたのです。

また、信長のプレゼント攻勢もありました。ビロードのマントや豪華な甲冑の他、当代随一の画家・狩野永徳の「洛中洛外図」屏風が謙信に贈られています。こういった貢物に謙信もまんざらではなかったようで、信長はうまくその心をつかんでいたのでした。

敵対関係(1576年頃~1578年頃)

ところが、同盟関係は信玄の死によって揺らぎはじめます。信玄の牽制のために謙信と同盟していた信長にとって、信玄がいなくなれば、関係を継続する必要はありませんでした。

また、謙信にも理由が生じます。信長との関係が悪化し毛利氏に身を寄せていた足利義昭が、彼に上洛を要請してきたのです。

そして、謙信は信長と長く敵対関係にあった一向一揆勢力と和睦します。こうして、2人の同盟の破綻が決定的となりました。ついに上杉軍と織田軍が対決する場がやってきたのです。

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謙信から見たら、信長は弱い?

1576年(天正4年)、謙信は能登を支配下に置くべく侵攻を開始します。能登の七尾城には幼年の畠山氏当主と、実質上の支配者である重臣の長続連(ちょうつぐつら)が籠城していました。疫病の発生などで状況が悪化したため、翌年、長続連は信長に援軍を求めます。

信長自身は出陣しませんでしたが、太田牛一の「信長公記」によると、派遣された軍勢は、柴田勝家を大将とし、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、前田利家、佐々成政など織田家家臣団のまさにオールスターでした。

ところが、七尾城は、上杉派の家臣遊佐続光(ゆさつぐみつ)らの謀反によって落城してしまいました。謙信はそのまま入城し、やってきた織田軍が慌てて引き返すところを追撃して大きなダメージを与えます。ここで、織田軍には1000人余りの死傷者が出たと言われています。これが、「手取川(てどりがわ)の戦い」です。

戦況が決した後、謙信は「信長軍は、実際に戦ってみると案外弱い」と評したそうです。あの面子に向かって「案外弱い」とサラッと言い放つあたり、辛口ですね。最も、生涯70戦2敗の謙信にとっては、大抵の相手は弱く感じられたのかもしれません。

ちなみに、信長側からのコメントは…無いようです。

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まとめ

しかし、1578年(天正6年)に謙信は亡くなります。続いて、1582年(天正10年)には本能寺の変で信長が命を落とします。

こうして上杉家は内乱に突入し、織田側では、信長の実質上の後継者となった羽柴秀吉が力を伸ばし始めます。

2人がもう少し長く生きていたら、勢力図はいったいどうなっていたのでしょうか。見たかったような気がしますね。

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xiao

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投稿者プロフィール

歴史と犬の話題があれば生きていける、そんな人間です。
平安時代と戦国時代が好きですが、調べ出したらどの時代でも面白いです。歴史って本当に面白いものですね。
「トリビア」な話題を、みなさんにわかりやすく面白く読んでいただけるように頑張ります。

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