上杉景勝を後継者に上杉謙信が指名しなかったことが、上杉家弱体の原因!?

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上杉謙信は、ご存知の方も多いと思いますが、終生独身だったために嫡子もいませんでした。

謙信自身も養子に入ったり、養子をもらったり、色々と養子が行き交っていて何が何だか…というのが本音です。

それでは、彼の後を継いだ景勝とは、どのように後継者の椅子を勝ち取ったのか、その経緯などを見ていきたいと思います。

景勝と謙信の血縁関係

上杉景勝は、1555年(弘治元年)に上田長尾家の当主・長尾政景の二男として生まれました。

母は謙信の姉:仙桃院であるため、謙信は景勝の実の叔父にあたります。

1564年(永禄7年)に父:政景が不慮の事故により溺死してしまい、景勝は謙信の養子となりました。

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景勝が謙信の跡目を勝ち取れたワケ

1578年(天正6年)3月、謙信は急死してしまいます。彼が後継者を指名していなかったため、内乱が勃発しました。

景勝と争ったのは、同じく謙信の養子である上杉景虎です。彼は北条氏康の子息ですが、越相同盟のために謙信の養子となっていました。

2人の養子によるこの跡目争いは、御館の乱(おたてのらん)と呼ばれています。

景勝には、謙信の重鎮の側近や旗本の過半数が味方しました。一方、景虎についたのは、謙信の養父である前関東管領上杉憲政や、北条・武田・伊達など周辺大名たちです。

当初は景虎が有利に戦局を進めていきましたが、景勝が武田勝頼と甲越同盟を結び、勝頼の妹との政略結婚を取り付けたため、戦局を押し戻します。武田氏を味方に付けたことで、他の周辺大名の干渉を排除することができたのです。また、乱が勃発したときにいち早く春日山城の兵器や金、謙信の印判を手にしていたため、これが有利に働きました。

そして、1579年(天正7年)に景虎は居城の御館が落城し脱出、北条氏の小田原へ向かいますが、その途中で鮫ヶ尾城主の堀江宗親の裏切りに遭い、自害して果てました。

その後、景勝は謙信の後継者となり、周辺大名との戦いに身を投じることとなりました。しかし、これは結局のところ内乱であるため、上杉家自体の弱体化を招く一因ともなったのです。

景勝は謙信の正当な後継者だった!?

謙信が後継者を定めないまま世を去ってしまったために、御館の乱が勃発してしまったわけですが、謙信は景勝をどのように考えていたのでしょうか。

1575年(天正3年)に、景勝が当時の名の長尾顕景(あきかげ)から上杉景勝とした際に、弾正少弼(だんじょうしょうひつ)の官位を謙信から受け継ぎました。これは元々謙信が朝廷から与えられたものであり、これを景勝に与えたということは、後継者として認めたためではないかと言われています。

また、当時の「上杉家軍役帳」という家臣リストには、最上位に景勝の名前があります。

そして、「御中城様」いう呼称がついているのですが、「様」がついたのはほかに謙信だけでした(謙信は「御実城様」)。これを見ても、景勝が特別な存在であったことがわかります。

まとめ

謙信がちゃんと後継者を決めておいてくれたら問題なかったというのがとどのつまりではありますが、景虎の扱いに関しても諸説あります。

越相同盟が破綻しても北条へ戻ることがなかったため、謙信が相当気に入っていたのだろうとか、本当は景勝と景虎で分割統治して欲しかったのではないかとか、様々な憶測があるのです。

上杉弱体化の一端を、軍神:上杉謙信その人が握っていたというのも皮肉な話ですね…。

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歴史と犬の話題があれば生きていける、そんな人間です。
平安時代と戦国時代が好きですが、調べ出したらどの時代でも面白いです。歴史って本当に面白いものですね。
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