上杉謙信は女性だった!? その真相とは!?

Sponsored Links

「敵に塩を送る」という言葉を知っていますか? この言葉は、今川と北条が武田領内に塩が入らないように封鎖して塩が不足したのを見過ごせなかった上杉謙信が、塩を送った逸話が元となっています。

もちろん戦国の世のこと、隣国にある上杉家と武田家は敵対している間柄でした。

それでも謙信は、武田領内の領民が苦しむのを見過ごせなかったのです。人気のある謙信ですが、色々と謎の多い武将でその中でも女性説を使っている小説などの作品もあります。まずは謙信について、みていきましょう。

上杉謙信略歴

1530年、越後の(現在の新潟)春日山城に長尾為景の四男として誕生。

寅年生まれなので幼名は、虎千代。元服後に景虎・輝虎・政虎・謙信と名前が変わります。7歳から14歳までの間、虎千代は林泉寺の住職・天室光育に預けられました。信仰に興味を示し学問や兵学も学びました。

その後、元服し長尾景虎と名を変え、兄の養子に入って家督を継ぎ越後を統一しました。武田信玄との川中島の合戦は戦国時代の中でも有名な戦いとなっています。信長の家臣・柴田勝家との手取川の戦いでも勝利をおさめています。

しかし、1577年、突然倒れ急死。死因は脳溢血だといわれています。

Sponsored Links

謙信女性説

  1. 文書や筆跡が女性的である
  2. 毎月10日前後に腹痛がおこり、合戦中でも兵を引いて城に引きこもっていた。周期的に起こる腹痛なので生理ではないかと考えられている。
  3. 信長が女性が婚礼に使う源氏物語の図屏風を送っている。
  4. スペインのゴンザレスが国王に送った報告書には「景勝の叔母」と記されている。
  5. 死因は「大虫」と記録されており、「大虫」とは更年期障害や婦人病を示します。倒れたのが3月9日で、毎月10日前後に体調を崩すという話と重なります。
  6. 一生独身を貫き養子を迎えている。衣類も赤いものなどを好んでいた。
  7. 越後のごぜ唄に「寅年、寅月、寅の日に生まれたまいし まんとらさまは 城山さまの御為に 赤やりたててご出陣。男も及ばぬ大力無双」というのがあり、「まんとらさま」は政虎(謙信)、「男も及ばぬ」という一節から女ではないかと推測されています。
  8. 肖像は本人ではなく、江戸時代に入り女性の城主は認められなかった。そこでお家断絶を懸念して男の肖像画を描かせた。戦国の謙信の肖像画には髭がなく精悍なイメージではない。

その真相とは!?

謙信の女性説ではないかと言われる理由を並べてみると、女性であった様にも思えます。謙信が妻帯しなかったこともその理由の1つですが、謙信が若い頃に敵将の娘を好きになり引き裂かれ病に伏せるほど心を痛めたという話もあります。

どちらが真実なのかは判断できませんが、敵に塩を送ったり、合戦の前には家臣に存分に食事をさせて士気を高めるなど胃袋をつかむことも上手かった様です。男女どちらかは不明ですが、細かな心遣いの出来る人であったのは間違いないのではないでしょうか。

Sponsored Links

真田丸 関連商品


この記事が気に入ったら
いいねで歴史の小ネタを毎日お届け!

ひすとりびあの最新情報をお届けします

Twitterでひすとりびあをフォローしよう!

こんな記事も読まれています

人名・事柄名

ページ上部へ戻る