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上杉謙信と武田信玄の一騎打ちはあったのか?

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上杉謙信と武田信玄といえば、戦国のライバルとして有名です。ですが、最後まで決着はつきませんでした。そんな2人が実際に対峙した、河中島の合戦とはどんな戦いなのか。果たして2人の一騎打ちはあったのか、その真相に迫りたいと思います。

武田信玄と上杉謙信

武田信玄は1521年から1573年にかけて生きました。「甲斐の虎」としても有名ですね。

1570年には駿河をあわせて中部地方一帯に大領国を結成し、織田信長と対立します。ですが1573年、徳川家康と戦って勝つものの、陣中にて病死しました。

上杉謙信は1530年から1578年にかけて生きました。

1548年に越後春日山城主となります。北条氏康に追われた上杉憲正を迎え、武田信玄に圧せられた村上・高梨氏らも越後に援を求めたため、北条氏康・武田信玄と対立することになります。

1573年に越後を平定、能登・加賀に進出して織田信長と対決、上楽まであと少しというところで病死しました。

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河中島の合戦

河中島の合戦はあしかけ12年に及び、5回戦っています。

ですが、激しい戦いが行われたのは2回目と4回目のみであり、あとは両者睨みあいのような形で終了しています。

  • 1回目…1553年8月 小競り合い程度で終了。
  • 2回目…1555年7月 信玄が北信濃を攻略し始めたため、謙信が出陣し激突しましたが、今川義元の調停にて停戦となりました。
  • 3回目…1557年8月 信玄が約定を破り、再び北信濃の侵攻を開始したので、謙信が出陣しました。
  • 4回目…1561年9月 最大の激戦でしたが、引き分けに終わっています。
  • 5回目…1564年8月 両者布陣して60日も睨みあいをしますが、それだけで終了してしまいました。

一騎打ち

絵画や彫像で有名な2人の一騎打ち。一騎打ちは4回目の戦いのときに起きたとされています。2人の一騎打ちは、要約すると以下のような話になります。

「9月10日の早朝、信玄の陣に謙信が馬にまたがり突進してきました。謙信は太刀で信玄を斬ろうとしますが、信玄は手にした軍配でそれを防ごうとします。しかし、防ぎきることが出来ず、肩を負傷してしまいます。謙信は更に攻撃しようとしましたが、信玄のもとに数名の旗本が駆け付けました。その中の原義虎の突いた槍が謙信の馬の尻に当たってしまい、驚いた馬は謙信を乗せたまま走り去った…。」

これだけ聞くと、つまり謙信が奇襲をかけて信玄に怪我を負わせたわけですから、謙信の勝ちのような気がしますね。

さて、この一騎打ちですが真相は不明です。しかし、『甲陽軍記』に上記のようなエピソードが記されています。陣の形や人数まで記されていますし、全くの創作とは思えません。上記のような劇的なエピソードではないにしろ、一騎打ちは「あった」と思いたいですね。

また、一騎打ちは影武者同士によるものだという説もあります。写真も何もない時代ですから、相手の顔なんて分からなかったでしょうしね。

合戦後は

結局12年も睨みあったにも関わらず、両者の決着は付かず仕舞いでした。その間に織田信長や徳川家康という、新手の勢力が芽を出していたのですが…。

あちこちで勢力争いが起きる戦国時代に、あまり1人の相手に固執するべきではなかったかもしれませんね。実際には両者にとって河中島という場所が要となったからのようです。

決着

一騎打ちの真相は分かりませんが、河中島の合戦に決着がつかなかったからこそ、今もこうして伝えられる話しなのでしょうね。

決着がつかなかったからこそ、ライバルとして今も両者の名は知られているのでしょうから。

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