大野治長が無能だったから大阪の役で負けた!?

Sponsored Links

豊臣家を滅亡に招いた張本人として「無能」との評価を受ける大野治長。

果たして大野治長が無能だったから大阪の役で豊臣側は敗北してしまったのでしょうか。

治長を高く評価した家康

実は、当の家康は治長を高く評価していたとする記録が残されています。

修理若輩と思ひしに、大坂籠城の張本人に罷りなり、弓矢取り候段武勇の儀申すに及ばず。秀頼へお忠節、はた浅からず。

これは冬の陣の和議成立後に治長が家康を訪れた際のことのようですが、すべての責任を自らに帰して、秀頼に忠義を尽くす治長を、家康が高く評価していたことがわかります。

夏の陣でも、自らの切腹を条件に秀頼母子の助命嘆願を行い、さらにそれが叶わないと知ると秀頼らと共に自害の道を選んでいますから、確かに治長の忠義は浅くなかったといえるでしょう。

また、治長は慶長4年(1599)に起きた徳川家康暗殺疑惑事件の首謀者として罪を問われ流罪になっています。

しかし、これは完全なる冤罪で、家康と本多正信の主従が策したものでした。

つまり、家康にとって治長はそうまでしても遠ざけたい存在だったのです。

この事件は、家康が治長を決して軽んじてはいなかったことの現れといえるのではないでしょうか。

Sponsored Links

籠城戦にしたことが敗因!?

そもそも、大阪冬の陣で豊臣側が敗北した理由は籠城戦を選択したことにあるという説があります。

籠城戦というのは、外からの援軍が期待できる場合に時間稼ぎとして籠城するという戦略です。

しかしながら、冬の陣において豊臣側の味方はすべて大坂城に入城してしまっていました。その状況で籠城すれば、当然時間がたつほどに兵糧が尽きてしまうはずです。

そう考えると、籠城策を主張した治長こそ、冬の陣敗北の原因といわれても仕方がないように思われます。

籠城戦を主張した人たちがどのような勝利を思い描いていたのかも、もはや疑問です。

By: Joop

無能か否か

治長は冬の陣の初めから、家康との早期和睦を考えていたといわれています。

それにもかかわらず、徳川方との決戦を避けきれなかった点では、リーダーとしての素質がなかったといわれても仕方がないでしょう。

幼少より付き従ってきた淀殿の主張を無碍に打ち捨てることができなかったのかもしれませんが、そうであるとすればやはり決断力にかけるところがあったように思われます。

「超」有能であれば、一発逆転の戦術をとることもできたかもしれませんが、そうでもないかぎり多少有能でも、敗戦の将は常に無能といわれるのが歴史の性なのかもしれません。

Sponsored Links

真田丸 関連商品


この記事が気に入ったら
いいねで歴史の小ネタを毎日お届け!

ひすとりびあの最新情報をお届けします

Twitterでひすとりびあをフォローしよう!

こんな記事も読まれています

人名・事柄名

ページ上部へ戻る