織田信長と一向宗の戦い!超リアリストvs理想主義の10年抗争

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石山本願寺を頭とした一向宗門徒は、戦国の雄、織田信長に対して長い間敵対していました。

最終的に双方戦いの矛を収めて和睦を果たしますが、10年に及び各地で続いた一向宗との抗争は信長の前に大きく立ちはだかり、天下統一への動きを大幅に遅らせたと言われます。

織田信長と一向宗(石山本願寺)は、なぜお互いにそれほど強い対立姿勢を取ったのでしょうか。

『一向一揆』~1460年代から続いた宗教的自治を求める動き

織田信長と一向宗が対立することになった発端としては、まずやはり『一向一揆』の存在があげられるでしょう。

一向一揆とは、浄土真宗の主流である一派=一向宗の門徒が集まり、自治を求めて守護大名と争った一揆です。

1466年、室町幕府第8代将軍足利義政の時代に最初の一揆が行われ、以来、越前・越中・加賀・畿内・三河・伊勢長島など、各地でたびたび蜂起が起こっていました。

当時の一向宗は他の仏教各宗よりも信徒同士の連帯感が強く、守護・守護大名の支配を受けず、信徒集団による自治で国を治めていこうという動きが活発だったのです。

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織田信長は宗教の越権行為を嫌っていた

もともとそんな状況があったところへ、尾張の国人領主から台頭してきた武家勢力の雄が織田信長でした。織田信長は当時はあたり前のことだった、寺社が世俗的な大権力を持つことや武装集団化していることなどを大変嫌った人です。

信長は合理的な考えの持ち主で、今で言う”政教分離”は必要だと考えていた節がありますし、大変なリアリストだったので仏の御利益もあまり信じていなかったようです。

そして、一向宗に限らず、寺社勢力が武力を持って戦国大名に抵抗することを、憎んでいると言っても差し支えないほど極端に嫌悪していました。

信長が武装寺社集団に対する報復として行った、初期の行動では、比叡山延暦寺の焼き討ち(1571年)が有名ですが、一向宗の総本山である石山本願寺に対しても、たびたび多額の金銭を要求したり、色々な命令を出して強い圧力をかけ、その世俗への影響力を抑えようと画策します。

1570年(元亀元年)9月:一向宗本山、石山本願寺挙兵

しかし、一向宗側は当然、こうした信長の圧力を素直に容認することなどできませんでした。

石山本願寺の法主・顕如は信長の取った厳しい措置に反発して、次第に織田家に対し敵意を持ち始めます。もともとは「王法為本」(仏法は現世の王者に従い政治の秩序を保つべき)という思想のもと、各地の一向宗門徒が武力による一揆を起こすことには反対を唱えていた顕如でしたが、元亀元年(1570年)9月、ついに織田軍に反旗を翻すことを決意し、挙兵します(第一次石山合戦)。

そして、全国の一向宗門徒に対して、織田信長と敵対せよという檄を飛ばしました。その当時、織田信長軍は畿内の三好3人衆と呼ばれる戦国大名達と戦の最中であり、その隙に石山本願寺から攻められるという、織田にとっては大変不本意な出来事が起こったのです。

とはいえ、この時行われた両者最初の合戦は、迎え撃った織田軍の勝利に終わりました。ですが、更に同じ年の11月、伊勢国長島の願証寺で一向一揆が発生(長島一向一揆)します。

長島一向一揆の勢力は強く、彼らは織田家の本拠である尾張まで進出。門徒衆は尾張の小木江城を攻め落とし、その城主だった織田信興(信長の弟)が自害に追い込まれてしまいました。

信興は信長が信頼を置いていた弟だったため、これが信長の怒りの火に油を注ぐことになってしまいます。

反織田信長勢力が結集して一向宗と連携!対立が長期化

こうして始まった両者の闘争ですが、もともとは本願寺顕如と織田信長、双方の感情的摩擦がもとだった全面的対立。他の要因が加わらなければ、争いは長引かなかったかもしれません。

ですが、実際は次に挙げるような多くの思惑や出来事がこれに絡み、状況はなかなか解決に至らず、戦いは長期化しました。

  1. 戦国大名(武将)に従わず『一向宗の国』づくりを目指すという、一向宗の門徒多数が思い描いていた理想主義的な目標
  2. 本山の石山本願寺が今までの武装反対の立場から一転、織田家と戦う布告を出したため、一向宗門徒の結束と戦意がますます高まったこと
  3. 織田信長にはぎ取られたも同然の自分の権威を取り戻したい、足利第15代将軍、足利義昭が本願寺に肩入れしたこと
  4. 同じ戦国大名として織田家にライバル意識を持つ武田信玄・朝倉義景(と近江の浅井家)と、石山本願寺の連携
  5. 紀伊雑賀衆ら、当時最先端の武器=”鉄砲”の扱いに強い門徒衆による一向一揆の発生
  6. 織田家の全国進出に危機感を抱いた毛利勢、特に毛利水軍が介入して本願寺側を助けたこと
  7. 信長が信頼していた家臣、摂津有岡城の荒木村重が足利義昭・本願寺と通じ、信長に謀叛を企てる

信長の粘り強い闘志によって状況が打開=石山合戦の終結

このように一向宗が他の大名達と連携してほぼ10年もの間、頑強に抵抗を続けたため、一時は窮地に陥ったかに見えたこともあった信長ですが、結局は粘り強い闘志で状況を乗り切ります。

まず、1573年4月、甲斐の武田信玄が病死しました。その年の7月、信長は最後の足利幕府将軍:義昭を事実上の引退に持ち込むことに成功、8月には朝倉義景を近江浅井家とともに攻め滅ぼします。これで織田家にとってはかなり道が開けたかに見えましたが、次に毛利水軍が本願寺の援護を始めます。

毛利と戦う手段として、織田軍は鉄甲船という新型船の建造を成功(1578年頃)させ、毛利水軍より以上に強い水軍を育成することで対抗しました。謀叛を起こした荒木村重に対しても1年近い包囲戦を続け、ついに村重は城を逃げ出す形で負けを認めます(1579年9月)。

この間、一向一揆衆に対して信長は終始強い態度で臨み、1574年(天正2年)9月に行われた伊勢長島の一向一揆討伐では、最後まで抵抗を続けた中江・屋長島の一揆勢・男女二万人を焼殺することでこれに終止符を打っています。

そして、とうとう1580年(天正8年)、もはや状況の不利は確実だと認めた本願寺顕如は、信長との停戦を決意します。

その年の閏3月、本願寺と織田信長の間に和議が成立。長かった戦いにようやく幕が下りました。なお、和議の条件に課された顕如の石山本願寺退出が実行された後、寺には火災が起こり、焼け落ちることになります。

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織田信長vs一向宗の対立 まとめ

以上、長い期間にわたった織田信長対一向宗の敵対関係と、その収束について、できるだけ情報を整理してみましたが、いかがでしたか?

本願寺顕如は石山退去後すっかり戦闘行為から遠ざかったようですから、やっぱり彼にとってこの10年は激情に駆られて押し進めた戦いだったのかな?と思いました。

そして、個人的には「政教は分離されていた方が良い」という信長の意見に賛成です。

ただ、過激な対応が多かったんじゃないかということについては、批判されてもしょうがないかなと思いますが…。

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ナカガワ マスミ

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投稿者プロフィール

戦国時代から昭和史まで、歴史には幅広く興味を持ち、色々調べ出したら止まりません。
合戦の話も好きですが、文化史が特に好き。そういう意味では平安中~後期も愛していますね。
皆様にも是非「歴史って面白いんだ!」と思って頂きたいと思いながら、記事を書いています。応援よろしくお願いします。

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