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織田信長の子孫といわれる西山氏が持つ信長のデスマスクとは

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いくつかのテレビ番組などで信長のデスマスクが存在すると紹介されいるのを知っていますか? そしてデスマスクは現存していているというのです。

デスマスクとは、死んだ人の顔から石膏などで型を取って作った顔面像のことです。亡骸は見つかっていないとされる信長のデスマスクが本当に存在するのか?

その謎について検証してみましょう。

信長の最期

まず信長はの最期を確認しておきましょう。ご存知の通り「本能寺の変」ですね。

1582年6月、信長は少数の手勢を連れて本能寺に宿泊。明智光秀は1万3000人の手勢を率いて秀吉の援軍に行くと見せかけ、あの有名な「敵は本能寺にあり」と宣言し本能寺に向かいます。

6月2日の明け方、物音に気づいた信長は小姓・森蘭丸に様子を見に行かせ「本能寺は包囲されており、旗印は桔梗の紋である(明智光秀の家紋)」と報告をうけます。その報告を聞いた信長は相手が光秀なら逃げ場はないと悟り「是非に及ばず」と言い応戦します。しかし、信長は傷を負い、奥へ行き蘭丸に火をつけさせて自刃したといいます。信長の亡骸は見つからなかったと言われています。

キーパーソンは黒人?

デスマスクのことを調べていくと「弥助」という名の黒人が浮かんできます。

1581年カトリック教会の司祭ヴァリニャーノが信長に謁見した時に奴隷として連れてこられました。黒人を初めてみた信長は興味を示しヴァリニャーノからこの黒人奴隷を譲りうけます。信長はこの黒人に「弥助」と名をつけ、正式な武士として取り立てたのです。弥助は身長6尺2分(約182.4cm)で、牛のように黒い身体だったようです。信長は弥助をボディーガードとして雇い、戦いにも参戦させています。

本能寺の変の時も、信長は弥助を側に置いていて、自刃した信長の生首を本能寺から持ち出し近くの南蛮寺に預けます。弥助はその足で今度は信長の息子の信忠を助けに二条新御所へ向かいますが、捕縛されてしまいます。

光秀は家臣から弥助の処分について聞かれると「動物で何も知らず日本人でもない」と弥助を解放。その後の弥助の消息は不明となりました。弥助は信長の首を岐阜へ持って行きデスマスクを作ったのではないかと言われていているのです。

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デスマスクの持ち主西山氏とは?

さて、その信長のデスマスクは一体どこにあるのでしょうか?

そのデスマスクは愛知県の「西山自然歴史博物館」に保管されています。所持している西山氏は、織田信長の孫にあたる秀信の子孫です。

テレビで紹介された時は、織田信長の子孫の男子フィギュアスケートの織田信成さんの顔と目鼻の位置の比較をしてほぼ一致すると検証していました。

デスマスクの顔は一般に出ている信長の顔に似ているようにも見えます。

信長の亡骸は行方不明とされていることや、光秀の本能寺の包囲をかいくぐって首を持ち出せたのか? もし捕らえられて、信長の首級が光秀に渡る様な危険なことをするだろうか? 信長の死については詳しいことが判らないことも多くあります。

このデスマスクについて、貴方はどう思いますか?

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