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長篠の戦いで鉄砲三段撃ちは行われなかった!?

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はじめて鉄砲を使ったとされる、長篠の戦い。

織田信長は3000丁もの鉄砲を用意し、当時の鉄砲の欠点を補うために3段階に分けて撃ち続け、ついに武田軍を破った戦いとされています。

しかし信長は、本当に鉄砲を3弾撃ちにしたのでしょうか?

長篠の戦いでの3弾撃ち

1575年、織田信長と徳川家康の連合軍が武田勝頼の軍を打ち破った戦いです。

この戦いで信長は3000丁の鉄砲を使用し、武田騎馬隊に壊滅的被害を与えた上で敗退させます。

この時使われたとされる3弾撃ちとは、兵士(足軽)を3グループに分け、それぞれに火縄銃を持たせてAグループが撃つと、次はBグループが前に出て撃つ。その間にAグループは火縄銃の装着をする。次にCグループが撃つと、Aグループは発射に備え、Bグループは火縄銃の装着をする――といった、波状攻撃です。

この方法で絶え間なく銃撃を続け、武田騎馬隊を壊滅させたとされています。

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火縄銃

刀と槍だけで戦っていた時代に、火縄銃は画期的なものでした。しかし、火縄式なので、使用するまでに手間がかかります。

最初に銃口から火薬と鉛玉を入れ、専用の道具で押し込みます。そして火皿に黒色の火薬を盛り、火打石で火縄に点火し、火挟みにはさんでおきます。

その状態で狙いを定めると、火挟みが落ちて火縄の火が火薬に移り、そうすると銃内の火薬に引火して爆発し、鉛玉が飛ぶというものでした。

火縄の火は吹き起こすだけで良いのですが、火薬や鉛玉の装着には慣れていても2~30秒はかかるとされています。この手間をかけている間に敵に襲撃されますので、信長は上記のような波状連射の作戦を考えたのでしょうか。

実際に行われたのか

この多少手間はかかっても画期的な火縄銃ですが、信長は実際に使用したのでしょうか。

少なくとも長篠の戦いに火縄銃を持ちこんではいます。現在は3000丁と伝えられますが、1000丁ほどではないかともされています。これは資料の数字が少し曖昧なためです。

そして3弾撃ちですが、3弾撃ちを行ったという記録はありません。『信長公記』には鉄砲奉行5人に指揮を取らせたという記述がありますが、それのみです。

鉄砲を持ちこむだけでも特記事項なのに、3段弾撃ちまで行っていたのなら必ず記録されているでしょうからね。

この3弾撃ちが最初に登場したのは、江戸時代の通俗小説の中です。それが徐々に広まって、一般に知られるようになったのではないでしょうか。

筆者も学校でそう習った覚えがありますし、映像化もされていますよね。実際は行われていなかったとすると、なんだか騙された気分になります。

記録がないので3弾撃ちが行われたかは不明。

しかし、可能性は低く、鉄砲ももう少し少ない数だったのではないかということになります。

火縄銃を用いた戦い

火縄銃のデビューとなった長篠の戦い以降は、特に何に使用されたというものもないようです。戦術そのものも特に変化はありませんでした。

火縄銃というのは大して殺傷力がありません。鉛の飛距離も500メートル程度で、それだけ離れていると命中してもポコッという程度です。

殺傷力があるのは200メートル以内ですが、それだけ離れていると鎧が玉をはじき返すこともあるでしょう。正確に命中させ、なおかつ100メートルほどに近づかなければ火縄銃では人を倒せないことになります。

つまり、火縄銃は中距離から接近戦用ということでしょうか。それにしては装備に手間がかかるし、使いにくいのかも知れません。

火縄銃の効果

殺傷力は期待できない火縄銃ですが、大量に揃えると轟音が発生します。

長篠の戦いでは武田騎馬隊を破った火縄銃ですが、これは火縄銃で狙い撃ったというより火縄銃の発する轟音で馬がパニックに陥り、それがために武田軍も大混乱に陥ったのではないかとされています。

時代は遡りますが、1274年に蒙古襲来があった際に、元は鉄砲を使ったのですが(もっとも、この「鉄砲」とは花火のようなものでした)、その音に馬が混乱し、馬を宥めるために武将は戦いどころではなかったとも言われています。

火縄銃は「鉄砲」としてより、音を発する装置として使った方が効果的だったようですね。

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