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桶狭間の戦いでの勝因は?

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桶狭間の戦いは有名なのではないでしょうか?

戦国時代に織田信長と今川義元が戦い、織田信長が勝利した戦いです。

ですが、この戦いは軍の規模からして織田軍には圧倒的に不利なはずでした。

なぜ不利な条件であった織田軍が勝てたのでしょう?

謎に迫ります。

桶狭間の戦い

1560年に尾張の桶狭間で行われた、今川義元と織田信長の戦いです。

義元は駿河・遠江・三河の3カ国の大軍で尾張に侵攻しました。

そして、桶狭間で駐軍したところを、信長が奇襲をかけたのです。

この奇襲によって義元は討ち取られました。

そして、この戦いの勝利により、信長は天下への礎を築くことになりました。

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戦いの原因

今までの定説は、義元は上洛するために尾張を侵攻したとするものです。

しかし、義元は上洛を目指していたわけではないようで、どの資料にも「上洛」という文字は見当たりません。

将軍に命じられて京を目指したのではないようです。

それに義元は完全に尾張制圧を目指していたわけではないでしょうし、情勢的にも信長だけを攻撃したところで道が開けたわけではありません。

では、何故義元は尾張へ侵攻したのでしょう?

現在言われているのが、尾張は今川氏の守護だった時期があるので、今川氏の旧領として意識しており、それを取り戻そうとしたのではないかという説です。

確かに戦国大名が誰しも上洛して天下を統べることを意識していたわけではないようなので、こちらの説が妥当かもしれません。

戦力差

織田軍は圧倒的に不利な条件であったと記述しましたが、実際はどうなのでしょう?

織田軍が総勢3000~5000程度であったのに対し、今川軍は総勢25000~45000ほどであったとされます。ゼロの桁が違いますよね。

ところで、この中で奇襲に参加したのは(織田軍)2000、実際に其れに対峙したのは5000~6000程度であったとされます。

直接対峙した人数の桁は同じですが、それでも戦力差は明らかに織田軍が不利ですね。

勝因

圧倒的に不利な織田軍が勝てたのは、なぜでしょう?

それは奇襲にあります。

『信長公記』には

「昼ごろ視界を遮るほどの豪雨。これに乗じて織田軍は兵を進め、雨がやんだ直後に奇襲をかけた。今川軍の総勢は2万人だったとされるが、義元を守る兵力は5000~6000程度しかなく、双方の勢力が拮抗した結果、大将同士が刀槍をふるう乱戦となった」

と書かれています。

また、『改正三河後風土記』には

「義元は輿を捨て300騎の親衛隊に周りを囲まれながら騎馬で退却しようとしたが、度重なる攻撃で周囲の兵を失い、ついに信長の馬に追いつかれる。義元は服部一忠を返り討ちにしたが、毛利良勝によって組み伏せられ、討ち取られた」

とも書かれています。

因みに組み伏せられた義元は首を討たれる際、毛利の左指を食いちぎったともされています。

今川軍の総大将の死により、今川は戦意を喪失し、結果織田軍の大勝利となりました。

奇襲は運次第?

桶狭間の戦いでは運よく豪雨にまぎれて奇襲をかけられた織田軍ですが、果たしてそう上手くいくものでしょうか?

もし雨の勢いがもう少し弱かったら、豪雨の最中に移動を完了出来なかったら、移動を今川軍に感知されていたら…。

そう考えると、奇襲はかなりの運任せだったのではないかと思います。

まともに対峙していたら、今川軍が圧勝だったのだろうなと戦力差からして思います。

もしそうなると、日本統一まではまだ時間がががり、誰が天下人になっていたのかもわかりませんね。

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