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元新撰組参謀 伊藤甲子太郎が暗殺された油小路の変とは

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参謀として働いていた新撰組を離脱して「御陵衛士」として活動していた伊東甲子太郎。

彼は油小路の変で暗殺されるという憂き目に遭っています。

その油小路の変とはどのような事件だったのでしょうか。

伊東甲子太郎の略歴

伊東甲子太郎は北辰一刀流の剣術を極めた男です。

彼は参謀及び文学師範として、佐幕派である新撰組に加盟しました。

しかし、伊東は勤王(倒幕)の考えを持っており、それは新撰組の考えと異なっていました。

そして、伊東は新撰組を離脱し、弟の鈴木三樹三郎や盟友の篠原泰之進らとともに「御陵衛士」を結成します。

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油小路の変とは

油小路の変は簡単に言うと、新撰組と御陵衛士の抗争事件です。

事の発端は伊東甲子太郎らが薩摩藩と共謀して新撰組局長:近藤勇を暗殺しようと計画していたからだという説、または御陵衛士が幕府と敵対していた長州藩に対して寛大な処分を下してほしいという旨の建白書を出したことが、長州厳罰論を主張する近藤勇の怒りを買ったからだという説があります。

慶応3年11月18日(1867年12月13日)、近藤勇は話があるとして伊東を酒宴に招きました。

その帰り道、待ち伏せをしていた新撰組隊士:大石鍬次郎らの槍により、伊東は殺されました。

酒に酔わせた上での犯行は、剣術に優れた伊東の反撃を恐れたからだと言います。

伊東は「奸賊ばら(卑怯なやつらめ)」と叫び、油小路通りの本光寺の門前で絶命しました。

御陵衛士の粛清

伊東の遺体は、発見しやすいように、本光寺前から、油小路と七条通りの交差点付近まで運ばれました。

そして、他の御陵衛士たちを誘い出すための囮として路上に放置されました。

鈴木三樹三郎、篠原泰之進、藤堂平助ら7人の御陵衛士たちが伊東の遺体を収容しに来たところ、待ち構えていた新撰組と戦闘になり、藤堂平助・服部武雄・毛内有之助が討死しました。

近藤勇は藤堂平助は助命しようと考えていたそうですが、近藤の心情を推し量ることができなかった隊士によって斬られてしまいました。

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事件のその後

幸いにも切り殺されず、その場を脱出できた御陵衛士の面々は今出川薩摩藩邸に合流し、その後、伏見薩摩藩邸に移されました。

しかし、伊東の死をもって、御陵衛士は壊滅しました。

伊東はかねてから、新撰組と御陵衛士は敵対勢力であり、御陵衛士は勤王派だということを他の勤王運動家たちに証明することを目標としてきました。

この事件によってそれが証明されたと同時に壊滅の憂き目にあったというのは何とも皮肉なものです。

伊東の遺体はその後、京都下京区にある光縁寺に埋葬された後、慶応4年に鈴木三樹三郎らによって、東山区の戒光寺に改葬されました。

油小路の変の1カ月後、報復として御陵衛士たちが二条城からの帰途についていた近藤勇を襲撃し、右肩に重傷を負わせています。

また、近藤は戊辰戦争後、身分を隠して新政府軍に出頭しましたが、御陵衛士の生き残りに看破され、ついに斬首となりました。

Sakura

投稿者プロフィール

天智天皇~称徳天皇朝が好きな一児の歴女ママです。
夢は奈良の明日香村付近に住んで、その時代の古墳やゆかりの地巡りを満喫したいなと思っています。
皆さんに読みやすく、そして分かりやすく面白い文章をお届けしたいです。

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