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韓国統監 伊藤博文の政策はどんなものだったか

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1905年、日本は第二次日韓協約を結んで大韓帝国の外交権を掌握し、漢城(現在のソウル)に韓国統監府を設置しました。初代統監に任命されたのは伊藤博文です。内閣総理大臣を4度も務めた大物政治家を登用した背景には、韓国をロシアに対抗しうる国に早急に近代化させたいとする日本側の事情があったといわれています。

しかし、1909年伊藤は会談で訪れたハルビン駅で暗殺されてしまいます。犯人とされたのは韓国の民族運動家・安重根。安重根は逮捕される際、「韓国万歳!」を叫んだといわれています。

ところがこれを知った韓国皇帝・高宗は安重根を支持することはなく、むしろ伊藤を「韓国の慈父」と呼び、「伊藤を失った事は、我が国だけの不幸ではない。日本だけの不幸ではない。東洋の不幸である。その暴徒が韓国人である事は、『恥ずかしさの極限』である。」と述べています。

伊藤博文は韓国でどのような政策を行っていったのでしょうか。

伊藤博文の韓国支配に対する考え

山県有朋や寺内正毅ら陸軍軍閥が韓国直轄化を急ぐ中、伊藤は国際協調重視派の立場をとっていました。また、韓国併合に関しても、保護国化による実質的な統治で充分との考えから反対の立場をとっていたとされています。伊藤は韓国の保護国化に対しても「韓国の富強の実を認むるに至る迄」と記し、韓国の国力がつき次第、保護国化も解除すべきという考えをもっていたようにも認められます。

また、伊藤は朝鮮人に対して次のように話しています。

朝鮮に内地人(=日本人)を移すという議論が大分あるようだが、我輩はこれに反対しておるのじゃ。(略)君、朝鮮人はえらいよ。この国の歴史を見ても、その進歩したことは、日本よりはるか以上であった時代もある。この民族にしてこれしきの国をみずから経営できない理由はない。才能においては決してお互いに劣ることはないのだ。しかるに今日の有様になったのは、人民が悪いのじゃなくて、政治が悪かったのだ。国さえ治まれば、人民は量においても質においても不足はない。 (新渡戸稲造『偉人群像』より)

しかし実際には日本の韓国併合の方針に反対した形跡もなく、また1909年に時の首相・桂太郎と外相・小村寿太郎が「韓国の将来を思うと韓国を併合する他にない」との考えを示した時には、「2人の考えを聞くと、異存ない」と述べており「併合の方針」についても是認していたといわれています。さらに、「今や方に協同的に進まんとする境遇となり、進んで一家たらんとせり」と併合を示唆する内容を東京の演説で行っています。

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伊藤の韓国政策

伊藤が韓国統監として赴任する前の韓国は財政破綻に陥っており、不正と腐敗が蔓延していました。さらに、両班という不労所得者の貴族集団が、良民、農民たちから財産と生産物を奪い、百姓たちは瀕死の状態に瀕していたのです。

1894年から1897年にかけて4度にわたり朝鮮を旅行したイギリスの旅行家・イザベラ・バードは首都ソウルについて次のように記しています。

都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民はおもに迷路のような横町の『地べた』で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで狭められている。悪臭ぷんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしたりしている。(『朝鮮紀行』講談社学術文庫p.59)

この現状を目にした伊藤は日本から無利子、無期限の資金3000万円を引き出し、韓国の道路、学校、土木工事、鉄道、病院建設を行います。そして、中央政府の大臣と地方長官には韓国人を任用、日本人はその補助役に就かせました。さらに教育の重要性を考えた伊藤は『普通学校令』を公布、統監だった4年間に100校以上の学校が建設されました。また政治腐敗の中で起きたインフレーションを抑えるため、韓国を「円通貨圏」に統合し、これにより物価が安定し、現代的貨幣制度確立の基礎を作ったともいわれています。

韓国はこうしたインフラ投資などにより急激に豊かになり、人口が大幅に増加していきました。日韓併合時の1910年には1313万人だった朝鮮半島の総人口は、32年後の1942年には2553万人に増加しています。

伊藤の行った韓国での政策の結果、政治だけでなく治安や住環境も改善していったと考えられるのです。

By: Ekke

韓国併合をいかに見るべきか

伊藤の暗殺事件の39日後、韓国最大の政党であった一進会が「韓日合邦を要求する声明書」を上奏しました。

日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか。

伊藤暗殺後の韓国皇帝・高宗の言葉や一進会の声明書を見る限り、韓国自身も併合を望んでいるようにも見えます。もちろんこれを文面通り正面から受け取るかどうかは議論されるべきでしょうが、伊藤の韓国での政策に触れること無く、「嫌がる韓国を一方的に日本が植民地化した」という立場で行われる日本の歴史教育は見直されるべきなのかもしれません。

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