伊藤博文暗殺の真相 黒幕はロシア!?

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1909年10月26日、伊藤博文はロシアの大蔵大臣・ウラジーミル・ココツェフと満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で射殺されました。

犯人とされたのは、韓国の民族運動家・安重根です。狙撃後安重根はロシア語で「コレヤ! ウラー!(Корея! Ура!)」(韓国万歳)と大声で叫び、逃げもせずにその場でロシア官憲に逮捕されました。実行犯の安重根には裁判で死刑が言い渡され、3月26日午前10時、伊藤の月命日と絶命した時刻に合わせて、刑が執行され、その生涯に幕を閉じたのです。

ところが、伊藤博文の暗殺の真犯人は安重根ではないという説が存在しているのをご存知でしょうか。なぜ安重根が真犯人ではないとする説が浮上したのでしょうか。だとすれば真犯人は誰なのでしょうか。

暗殺事件に関する疑惑

1.弾と銃創の違い

伊藤博文の遺体から発見された銃弾は、フランス騎馬隊のカービン銃の弾でした。しかし、安重根が犯行の際に所持していたのはクンフト社製・7連式のブローニング拳銃です。ブローニング拳銃でカービング銃の弾を打つことはできません。

伊藤に同行した貴族院・室田義文も5発被弾し、犯人は安重根ではないと書き記しています。室田は「フランス騎兵銃で撃った者がある」と述べていたそうです。

2.銃弾の角度

伊藤は狙撃のすぐ後「3発当たった。相手は誰だ」と叫んだとされています。3発のうち2発は体内に銃弾が留まっており、1発は右肩を砕き右乳下に止まっており、もう1発は右肩関節を貫通して臍下に止まっていたそうです。これからわかるように伊藤に当たった銃弾はすべて右上方から左下方に向けて当たっています。しかし、安重根は兵列の影に隠れるように「しゃがんで」撃ったと自白しています。

また、室田も「右肩から斜め下に撃つにはいかなる方法によるも二階を除いて不可能である。そこは格子になっていて斜め下に狙うには絶好であった」と語っています。

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黒幕はロシア?

こうした中、現在真犯人として名前が上がっているのがロシアなのです。なぜロシアが真犯人と噂されているのでしょうか。

1.ロシア側の被害者はゼロ

伊藤暗殺の際、伊藤以外に傍にいた室田や秘書・森槐南も被弾しています。しかし、伊藤を狙撃現場である駅のプラットフォームに連れ出したウラジーミル・ココツェフをはじめ、そこにいた軍や警察などロシア側にはかすり傷一つなかったそうです。当時駅には多数のロシア軍や警察がいたはずで、伊藤のすぐ近くまで拳銃を持った安重根が近づくことが可能な状況は通常であれば生まれ得なかったはずなのです。

2.「韓民会」の存在

外務省外交資料館に収められている「伊藤公爵満州視察一件」に次のような記載があります。

真の凶行担当者は、安重根の成功とともに逃亡したるものならんか。今、ウラジオ方面の消息に通じたる者の言うところに照らし凶行首謀者および凶行の任に当たりたる疑いあるものを挙げれば左の数人なるべきか

そして、25人の名前が記されてありましたが、安重根を含めたこの25人は「韓民会」というロシア特務機関の影響下にある組織だったのです。

3.クンフト社製・ブローニング拳銃はロシア陸軍のもの

ノンフィクションライター・大野芳氏『伊藤博文暗殺事件』の中で、安重根が使用した拳銃は、第一次世界大戦の契機となったオーストリア皇太子夫妻暗殺事件(サラエボ事件)に使われた拳銃の一つ前のタイプだという点を指摘しています。これを踏まえ、前九州大学大学院の客員教授・若狭和朋氏は論文「伊藤博文暗殺・安重根は犯人ではない」で次のように述べています。

クンフト社ならば販売先はロシア陸軍である。皇太子夫妻を暗殺した犯人は『セルビアの民族主義の青年』だと、高校教科書は書く。
だが、これは間違いである。犯人たちはセルビア陸軍の青年将校たちであり、レーニンの同志であった。世界大戦を共産主義革命の起点と考えたレーニンはセルビアの国王や閣僚たちをクーデターで殺し、セルビアを制圧していたのである。クーデターを起こした将校たちはレーニンから支給された武器で武装していたのである。

若狭氏が指摘する通りだとすれば、安重根もロシア陸軍からこの拳銃を入手していたと考えられます。

4.会談は極秘だった

伊藤とココフツェフとの会談は前満州鉄道総裁・後藤新平が極秘に設定した会談であり、日本側でも一部の人間しか知りませんでした。つまり、日本政府の中枢にいる人間、もしくはロシア政府側の人間から情報が漏洩しない限り、今回の暗殺計画を練る事はできなかったのです。

ロシアが伊藤博文を暗殺する動機とは

では、ロシアには伊藤を暗殺するどんな動機があったのでしょうか。その動機としていわれているのは、日露戦争での敗北は伊藤の裏切りによるものだと考えていたということです。

日露戦争前の伊藤は、満韓交換による日露協商を締結する事で日露友好を画策する親露派としての立場をとっていました。満韓交換というのは、、満州でのロシア帝国の権利を認める代わりに、朝鮮半島での日本の権利を認めてもらおうという考えです。しかし、ロシアは軍事的に優位な立場にあり、もし日露協商が成立しても長続きはせず日露開戦は免れないという考えから、国内は山県有朋や桂太郎らの主導する親英派が主流となっていました。そして1902年、日英同盟が結ばれます。こうした状況の中で日本はロシアに満韓交換論を提示しますが、ロシアはこれを受け入れず、逆に朝鮮半島を南北に分け、南側を日本の勢力下に、北側を中立地帯として軍事目的での利用を禁ずるという提案をしてきたのです。中立とはいえ、朝鮮半島にロシアの勢力がおよぶことを示していたので、日本はこれを拒否。こうして1904年、日露戦争開戦に至ることになります。

ロシア皇帝は日露開戦は早くても2年後と見ており、1902年に日英同盟が結ばれ、日本が急速に対露路線をとったのは寝耳に水だったのでしょう。ロシアは態勢が整わないまま、日露戦争を戦わなければならなくなり、実質的敗北を喫してしまったのです。

ロシアはこの『策略』の中心部にいたのが伊藤博文だったと考えていました。親露の立場をとってロシアを安心させておきながら、実は裏で日英同盟締結を画策し、ロシアを謀略する役割を演じていた、ということでしょうか。

隠された真相

前述した2つの疑惑を見ても、安重根が犯人でなかったと考えるのが妥当に思えます。しかし、日本の裁判所は安重根は死刑に処したのです。

また、その時の検事の調書には室田が述べていた「フランス騎馬銃」の記録がなく、さらに言えば安重根を裁いた公判記録のどこにも「騎馬銃」の文字は出てきません。加えて、遺体の処置に当たった医師の談話にも「騎馬銃」のことは出てこないのです。

こうした状況を鑑みるに、日本が安重根を真犯人に仕立てあげた可能性が高いといえるでしょう。

日本が伊藤暗殺の真相を隠した理由には日本の利権が関わっていたと考えるのが妥当でしょう。「伊藤は安重根の凶弾に倒れた」とする方が、真相を明らかにするよりも利益があった、もしくは真相を明らかにすることは日本に不利益をもたらすと考えられたのかもしれません。いずれにしても新たな資料が発見されない限り、その真相は闇の中に葬られたままなのです。

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