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伊藤博文が暗殺された理由

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明治42(1909)年10月26日、日本の初代内閣総理大臣で、当時は枢密院議長を務めていた伊藤博文が、清国浜江庁(現在の中華人民共和国黒竜江省)のハルビン駅でロシアの蔵相と会談中、朝鮮の民族主義活動家・安重根に射殺されるという事件が起きました。

なぜ、日本の元総理大臣が清国北方で朝鮮の暗殺者に殺されなければならなかったのでしょう。

そこには、日本、清、朝鮮、そしてロシアを巡る根深い問題が存在していたのです。

当時の日本を巡る状況

伊藤博文をはじめとする尊皇攘夷派の志士が、幕府を倒してでも日本を変革しようとした背景には、阿片戦争がありました。

清国から輸入した茶葉や陶磁器の代金を、インドで栽培させた麻薬の阿片の密輸出でまかなおうとしたイギリスに対し、清朝が阿片禁止を断行したのがきっかけで始まったこの戦争は、大方の予想を裏切り清国の大敗に終わります。

アジア最強の眠れる獅子と思われていた清国が、ヨーロッパの島国であるイギリスに敗れたことは、鎖国中だった日本を驚かせます。

このままでは日本もヨーロッパ列強の植民地になってしまう、その危機感が伊藤博文らを決起させたと同時に、同じ島国であるイギリスが大陸の大帝国である清を打ち負かしたという事実が、日本も欧州列強のような強国になれる可能性があるという自信を持たせたことも想像に難くありません。

事実、イギリスに留学した伊藤らの尽力で日本は植民地化を防いだのみならず、日清戦争、日露戦争で清国、ロシアの二大強国を相手に勝利を収め、アジアにおける唯一の西欧近代型帝国として君臨するようになるのです。

伊藤博文がハルビンでロシアの蔵相ウラジーミル・ココツェフと会見しようとしていたのも、日露戦争後の満州、朝鮮を巡る問題を非公式に話し合うためでした。

そもそも日露戦争とは、日清戦争で弱体化した清の領土を狙うロシアと日本の、朝鮮半島を境にした勢力争いでした。

中国北方の満州を事実上占領し、さらに南下しようとするロシア。そこには、日本が日清戦争の勝利を契機に独立させ、属国にしていた李氏朝鮮がありました。

朝鮮半島を本土防衛の最前線と考える日本と、そこに隣接する遼東半島に巨大な軍事拠点を築いたロシアが対決するのは当然のことだったのです。

日露戦争が日本に有利な条件で終結し、ポーツマス条約で日本の朝鮮半島と満州南部の実効支配が認められたものの、満州鉄道とシベリア鉄道の連絡、満州鉄道周辺における中国人に対する問題など、両国が決めねばならない問題は残っていました。

そこで、初代韓国統監府統監を務めた伊藤博文が、ロシアの蔵相と現地でこれらの問題について語り合うことになっていたのです。

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なぜ、伊藤博文でなければならなかったのか?

ハルビン駅に降り立った時、伊藤博文は満68歳。

平均年齢が45歳に満たなかった当時としてはかなりの高齢者といえるでしょう。

その時の役職も天皇の最高諮問機関である枢密院議長という、外交よりも内政面で力を発揮するものでした。

そんな伊藤が遠く満州まででかけてロシアと会談することになったのは、その経歴に理由がありました。

日露戦争後の明治38(1905)年、第二次日韓協約によって大韓帝国は軍事や外交の権利を失い、日本の保護国化しました。

日本の韓国支配のために設けられたのが漢城(現在のソウル特別市)に置かれた韓国統監府で、伊藤はその初代統監の地位にありました。

総理経験者だった伊藤が韓国統監に就任した経緯については、面白いエピソードがあります。

当時の首相だった桂太郎は伊藤を統監にしたかったのですが、初代総理大臣、初代枢密院議長と栄職を歴任した伊藤に対する反発が元老たちの中にあり、伊藤の名を出しても素直に受け容れられる状況ではありませんでした。

そんな折、統監を誰にするかを決める料亭での宴席でなじみの芸者・秀松が居眠りを始めたのを伊藤が見とがめると、秀松は「みなさんがあまり黙っているので眠くもなります、何がそんなに難しいのです」と尋ねました。

これに対して伊藤が「朝鮮へ行く親方を決めるのだ」と答えると、秀松は「そんなら伊藤の御前がよろしいではありませんか」といい、これを面白がった元老たちによって、伊藤の韓国統監が決まったというのです。

皮肉なことにこの当時の伊藤は、日本の朝鮮支配には消極的でした。

朝鮮半島を植民地化して日本人を送り込もうという意見には反対を表明していました。

新渡戸稲造との対話でも「朝鮮人はえらいよ。国の歴史を見ても、その進歩したことは、日本よるはるか以上であった時代もある」と朝鮮人を評価し、「今日の有様になったのは、人民が悪いのじゃなくて、政治が悪かったのだ」と政治体制が変われば朝鮮を独立させることにも含みを持たせていました。

しかし、統監就任後に現地で反日派の激しい抵抗を見た伊藤は、朝鮮を併合するという桂太郎首相や小村寿太郎外相ら積極派の意見を受け容れるようになり、韓国併合への道筋をつけて統監を辞任します。

辞任後の伊藤は、枢密院議長としてむしろ積極的に日本の韓国支配を推進し、韓国の司法や軍事を日本に任せるという方針を韓国政府にのませています。

このように、朝鮮半島と大韓帝国の保護国化から併合まで一貫して立ち会っていたのが伊藤博文だったわけです。

朝鮮半島と満州を巡る日露の交渉に、元老・伊藤博文が出向かなければならなかった理由はそれでした。

暗殺の実行犯・安重根とは何者か?

伊藤博文を暗殺した安重根は、1879年、黄海道海州府(現在の北朝鮮海州市)に生まれた官僚階級の子弟でした。

1894年に起きた東学党の乱(甲午農民戦争)で政府軍についたことから、乱後はカトリックの教会にかくまわれ、そこでキリスト教に改宗します。

日本の韓国併合に反対する義兵闘争が高まると、身の危険を感じてウラジオストックでロシアに亡命を果たします。

安重根を英雄視する韓国では、このとき安重根はロシアで抗日組織の大韓義軍を結成するために亡命し、現地で抗日闘争を続けたということになっていますが、それを裏付ける証拠は希薄です。

これにはまた、安重根が義勇軍を結成し、その兵士として活動していたという理由で、安重根はテロリストではなく軍人として正当に伊藤博文を攻撃したということにしたい、という狙いもあるようです。

ウラジオストック亡命後の安重根の行動については不明な点も多いため、ロシアによる陰謀説が唱えられる原因ともなっています。

安重根のハルビン駅での行動にも疑問の点があります。

ハルビン駅のホームでロシア兵の閲兵を受けている伊藤を狙った時、安重根は伊藤の顔を知らなかったというのです。

韓国支配の頂点に立った人物であり、新聞などを通じて顔写真も出回っていた伊藤の顔も知らずに凶行に及ぶというのは、とても計画性のあるものとは思えません。

事実、安重根は最初、伊藤に随行していた外交官の室田義文を狙って撃ち、その後から人違いであってはいけないと、室田の後ろにいた伊藤にも発砲するという行動をとっています。

この銃撃で、室田には4発、伊藤には3発、ハルビン総領事の川上俊彦には1発が命中しましたが、室田は奇跡的に軽傷、川上は腹部を撃たれて重傷、伊藤は手当てを受けましたが30分後に死亡という惨事が起きました。

伊藤の傷は、右肩から入って胸部で止まったものと、右腕を貫通して腹部に止まったものとの2つの盲管銃創、肉をそいで飛び出した貫通銃創の3つでした。

体内に銃弾が止まる盲管銃創は、弾丸のエネルギーがすべて体内で発揮されてしまうため、貫通銃創よりも致命傷になる場合も少なくありません。

とはいえ、発射された弾丸の数や種類、弾丸の侵入角度などが、必ずしも安重根の自供や周囲の証言とは一致しないため、ケネディ大統領暗殺事件で実行犯とされるオズワルドと同じく、安重根以外に真犯人がいるのではないかという説も消えることはありません。

その場でロシア官憲に逮捕され、その後日本の司法当局に引き渡された安重根は旅順で裁判を受け、翌年3月26日、伊藤の命日の死亡時刻に合わせた銃殺刑を受けます。

こうして刑死した安重根は、日本では伊藤博文暗殺のテロリスト、韓国では抗日英雄と真逆の評価を受けるに至ります。

もっとも関係の深い両国の立場がこれほど違っていては、事件から百十年が経とうとしている今、その真相に迫るのは至難の業かもしれません。

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