石田三成の最期 そのお墓はどこにある?

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石田三成ほど評価が真っ二つに分かれる武将もいないと思います。

高評価、低評価、どちらもそれなりの根拠があるだけに、なかなか決めかねるところですね。

そんな三成の最期は、どのようなものであったかご存知でしょうか。そ

して、お墓はどこにあるのか、誰が埋葬したのか…彼の最後の足跡をたどってみたいと思います。

三成の墓の場所

三成の墓は、ずばり、京都の大徳寺三玄院にあります。

当初、家康が墓を許さなかったために土中に埋もれていたとも言われています。1912年(明治45年)に改葬が行われ、そのときに墓石の下から骨が見つかりました。

当時斬首された人を埋葬する方法で、小柄で胴と首がつながれていたそうです。三玄院は非公開であるため、拝観はできません。門前の「石田三成公御墓地」という石碑だけ見ることができます。

また、高野山の奥の院に多くの戦国大名の墓所がありますが、この中に三成のものもあります。

熊本県人吉市の願成寺(がんじょうじ)にも、三成の供養塔があります。これは相良長毎(さがらながつね)の命によって建てられたものですが、もともと相良は関ヶ原では西軍の武将でした。

しかし、東軍に寝返り、結果的に三成を裏切る形となります。

徳川家康からは功績を認められたものの、晩年になり相良は追善供養のためとして、三成や、自分の裏切りにより死亡した諸将たちのために石塔を建てたのです。

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三成の最期

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで徳川方に敗れた三成は、美濃国(現在の岐阜県内)の山中を転々と逃亡します。

しかし、9月21日に徳川方の田中吉政の部隊によって伊吹山に潜んでいたところを発見され、捕縛されてしまいした。翌日には大津城へ護送され、城門の前でさらし者にされます。

9月28日には小西行長や安国寺恵瓊(あんこくじえけい)と共に大阪府の堺を引き回され、29日には京都へ送られ、京都所司代奥平信昌の監視下に置かれました。

そして10月1日、六条河原にて斬首されます。享年41歳でした。

江戸中期に湯浅常山が著した逸話集「常山奇談(じょうざんきだん)」や、肥前平戸藩主松浦鎮信(まつらしげのぶ)による「武功雑記」には、斬首直前の三成の逸話が載せられています。

徳川家康は、三成と小西行長、安国寺恵瓊に小袖を与えました。小西と安国寺は受け取りましたが、三成だけは誰からのものだと尋ねます。「上様からだ」と言われると、三成は「上様は秀頼公だけだ、いつから家康が上様になったのだ」と答えて受け取らなかったというものです。三成の忠誠心は、最後まで揺るがなかったのでしょうね。

首の行方は?

三成の首は、三条河原でさらされました。その後どうなったのかというと、かねてから親交のあった臨済宗の僧侶・春屋宗園(しゅんおくそうえん)と沢庵宗彭(たくあんそうほう)に引き取られ、胴体と共に京都の大徳寺三玄院に葬られました。

前述のとおり、1912年の改葬の際に、墓石の下から遺骨が見つかっています。

まとめ

捕縛され大津城でさらされたときには、福島正則との間に逸話があり、福島に罵られた三成は「お主の所業を太閤殿下にあの世でお伝えするぞ」と言い返したとか。

やはり、豊臣家への忠誠の強さを感じるエピソードです。

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xiao

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投稿者プロフィール

歴史と犬の話題があれば生きていける、そんな人間です。
平安時代と戦国時代が好きですが、調べ出したらどの時代でも面白いです。歴史って本当に面白いものですね。
「トリビア」な話題を、みなさんにわかりやすく面白く読んでいただけるように頑張ります。

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