石田三成はどのような性格だった?

Sponsored Links

石田三成は、豊臣秀吉政権下で権威を振るった秀吉の部下です。

彼は秀吉死後の関ヶ原の合戦では、豊臣軍の指揮官として努力しました。

石田三成というと、どうしても「嫌われ者」のイメージがありますが、実際の彼はどんな人だったのでしょう?

謎に迫ります。

石田三成

石田三成は、1560年ー1600年にかけて生きました。豊臣氏五奉行の一人として活躍しています。

彼は若くして秀吉に仕え、1583年の賎ケ岳の戦いで功をあげ、重用されるようになり、そして秀吉の側近となって「五奉行」となるのです。

軍需品の輸送や占領政策に優れたとされます。また、太閤検地では長束正家・浅野長政とともに中心人物となっています。

秀吉の死後は家康を忌み、反対勢力を集めて関ヶ原の合戦を起こしますが、最終的に捕らえられて四条河原で斬首に処されました。

Sponsored Links

性格

彼はどんな性格だったのでしょう?

『太閤記』には

「三成は諌に付ては、我が色気取らず。諸事有る姿を好みし者なり」

と書かれています。

ただ単に彼は悪い人だと思われることもあるようですが、そうではなく、単なるおべっかづかいではなく、主君(秀吉)に対しても堂々と諌言し規律を守る真面目な人だったように思います。

ただ、ちょっと横柄だったようですね。

嫌われていた?

  • 前田利家の死後、加藤清正・福島元則らが三成を襲撃した。
  • 毛利輝元から秀吉への時季外れで珍しい献上品(桃)を付き返した。
  • 島左近に「決断が遅いからいつも失敗する」と悪口を言われている。

島左近は三成の腹心の部下です。

ですが、「自分の主人が立派に見える使用人はいない」とも言いますし、純粋な悪口ではなく、単なる愚痴だと思いたいのですが…。

大谷吉継には

「才知に長けているが勇気が足りない」

「三成は横柄で傲慢だと大名から百姓まで噂している。失礼だが、人望がない」

と言われています。

ちなみにこの大谷吉継は三成の親友です。親友だからこそ遺憾のない意見を言ったのだと思いますが。

友人関係

大谷吉継は親友同士でした。有名なエピソードがあるのでご紹介します。

秀吉の茶会で一口ずつ飲み回す回し飲みがされました。らい病を患っていた大谷吉継は飲むふりだけで茶碗を回そうとしたのですが、顔から出た膿が茶碗の中に落ちてしまいます。

それを見た他の者はそれを飲むのを嫌がったのですが、三成だけは平然とその茶を飲んだということです。

これにより、2人の友情は一層深まったそうです。

人物評価

三成は奉行として権勢をふるっていたようですから、それが秀吉の寵愛を傘にきて威張っているように取られたようです。

五奉行の中で一番の実力者でしたし、毛利、上杉、島津らは三成を通して秀吉への取りなしを行っていました。

実力者だったから、必要以上に悪く見えたのかもしれません。

取りなしを受けていた毛利輝元は

「かの仁、当時、肝心の人にて、なかなか申すに及ばず。大かた心得にて候(気を使う)」

と書いています。

また、島津義弘は

「江州佐和田の城主・石田治部少輔、太閤公の臣として、その勢威、比肩の人なし」

と書いています。

なぜ悪人なのか

特に三成が何かをした、というわけでもなさそうです。ですが彼が悪人とされたのは江戸時代からのことですし、それにはやはり関ヶ原の合戦で敗者となったことが原因でしょう。

江戸時代は、晩年の秀吉の悪行は全て三成のせいだとされていたのです。

三成は多少堅物で生真面目であったかもしれませんが、横柄だとか傲慢だとかは、三成が高い位置にいたゆえの僻みや中傷も混じっているのではないでしょうか?

少なくとも、誰からも嫌われて友達もいなくて…という人ではありません。

彼は時代によって、意図的に悪人に「された」人なのでしょう。

Sponsored Links

真田丸 関連商品


この記事が気に入ったら
いいねで歴史の小ネタを毎日お届け!

ひすとりびあの最新情報をお届けします

Twitterでひすとりびあをフォローしよう!

こんな記事も読まれています

人名・事柄名

ページ上部へ戻る