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今川氏真と早川殿 政略結婚だったが実は夫婦円満カップルだった!?

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当時はごく普通のことだった政略結婚。自分の意思とは関係なく結婚相手を決められるなんて、現代では考えられませんよね。

けれど、そこで結婚した相手がすべて合わない相手だというわけでもないんです。

今川氏真と早川殿、彼らはまさにそんな夫婦だったのではないかと思うのです。

早川殿とはどんな人物?

早川殿(本名・生年不詳)は、北条氏康の娘として相模国に生まれました。いわば北条家のプリンセスですね。

当時は戦乱の世の中で、父:氏康は甲斐の武田、駿河の今川と争いを続けていました。そんな中、甲相駿(こうそうすん)三国同盟が成立し、三国の間で嫡子と娘を娶せる政略結婚が行われました。そして、早川殿は、1554年(天文23年)に今川義元の嫡男・氏真に嫁いだのでした。当時氏真は17歳だったので、おそらく早川殿もそれほど変わらない年齢だったのではないかと推測されます。

しかし、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで、義父:今川義元が討死すると、今川家はどんどん傾いていきます。1568年(永禄元年)、武田信玄が駿河に侵攻してきたため、氏真と早川殿は、早川殿の実父:北条氏康を頼り小田原へ逃れることになりました。この際、小田原の早川に住んだため、「早川殿」と呼ばれるようになるのです。

ところが、この日々も長くは続きませんでした。氏康が亡くなり、後を継いだ氏政は武田信玄と結びます。徳川氏創業期の事件を記した「校訂松平記」によると、このとき、信玄が氏真を討つために兵を小田原へ派遣したため、それを知った早川殿は立腹し、譜代の者たちを集めて船に乗り小田原を去ったということです。

このことからは、早川殿が単なる深窓のお姫様ではなかったことがうかがえます。自分で主体的に動くことができ、夫を連れて実家を去るという選択ができたわけですから…。

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2人の政略結婚の目的は?

前述のように、2人の結婚の背景には1554年成立の甲相駿三国同盟がありました。

元々、北条氏と今川氏は同盟関係にありました。しかし、今川義元が北条氏の仇敵武田氏と結んだため、両者の関係は悪化します。その後、富士川以東の争奪戦(河東の乱)が約10年ほど続きますが、ようやく講和へとこぎつけました。

そして、三国の関係をより強固にしようと、三氏はそれぞれの嫡子と娘を結婚させることにしたわけです。

  • 今川義元の娘(嶺松院)→武田信玄の子(義信)
  • 武田信玄の娘(黄梅院)→北条氏康の子(氏政)
  • 北条氏康の娘(早川殿)→今川義元の子(氏真)

という図になります。これにより、三氏は自分の目的によりフォーカスできるようになりました。武田氏は上杉氏との対決、北条氏は関東平定、今川氏は織田氏との対決です。

ただ、この三国同盟は15年足らずのうちに崩壊していくこととなってしまいました。

2人の夫婦仲はどうだった?

具体的なエピソードは伝わっていませんが、4男1女をもうけた2人の仲は良好だったと考えられます。

甲相駿三国同盟で3組の夫婦が成立しましたが、彼らは唯一離別していないのです。夫・氏真が領地を追われ、身を寄せた実家:北条氏からも出ていくことになり、徳川氏に身を寄せたりと境遇的にはかなり厳しいはずでしたが、2人が添い遂げたのは、よほど仲が良かったからだったのではないでしょうか。

政治的手腕は全く評価されない氏真ですが、早川殿にとっては良き夫だったのでしょう。

まとめ

2人の子は江戸幕府で高家として存続しました。高家とは位の高い旗本が就くことができる、儀式や典礼に関わる役職です。

以後、明治時代までその血筋は続いていきました。2人が力を合わせ切り抜けた不遇の時代が、明るい未来へと結実したのですね。

xiao

投稿者プロフィール

歴史と犬の話題があれば生きていける、そんな人間です。
平安時代と戦国時代が好きですが、調べ出したらどの時代でも面白いです。歴史って本当に面白いものですね。
「トリビア」な話題を、みなさんにわかりやすく面白く読んでいただけるように頑張ります。

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