Oops! It appears that you have disabled your Javascript. In order for you to see this page as it is meant to appear, we ask that you please re-enable your Javascript!

穴山梅雪は何故、武田勝頼を裏切った? 武田氏の命運を左右した男の謎にせまる

Sponsored Links

武田勝頼と穴山梅雪。

彼らは主君と家臣であると同時に、縁戚関係で結ばれた親戚同士でもありました。

しかし、織田、徳川軍の甲斐侵攻の際、梅雪は勝頼を見限り、徳川家康に投降してしまいます。一体なぜ梅雪は勝頼を裏切ったのでしょう。

そして、それはどんな影響を与えたのでしょうか。

武田氏の重臣でもあり、親戚でもあった穴山氏

穴山梅雪は武田信玄の姉、南松院を母として生まれ、信玄の娘見性院を妻とし、武田氏とはガッチリと繋がった縁戚関係にありました。

武田信玄の嫡男の勝頼にとっては従兄弟でもあり、義兄でもある梅雪はかなり近しい親戚であるといえます。

穴山氏は元々が武田姓を名乗る事を許された一族でもありましたので、武田氏が宗家、穴山氏が分家といった立ち位置だったと言っても良いでしょう。

武田氏の重臣として、親戚として武田信玄を支えた穴山梅雪。

彼がその立ち位置を変えなければ武田氏は安泰であったかもしれません。

Sponsored Links

梅雪は勝頼を裏切った理由

何故、穴山梅雪は武田勝頼を裏切ったのでしょうか。

一説によれば、勝頼が穴山梅雪の嫡男に嫁がせると約束していた息女を武田信豊に嫁がせてしまったため、梅雪が激怒したのだと言われています。

梅雪にとっては顔に泥を塗られてしまったのですから、勝頼への不信が生まれても確かにおかしくはありません。

もっとも梅雪と勝頼は元から仲が悪かったという説もあり、長篠の戦いではさっさと戦線を離脱した梅雪に腹を立てた勝頼が殺してしまえと言い放ったと言います。

そもそも梅雪には、武田信玄の側室、諏訪御寮人を母とし、一時は諏訪氏を継ぐはずであった勝頼よりも、武田氏分家の梅雪を父に武田信玄の正室、三条夫人の娘である見性院を母に持つ梅雪の息子:勝千代の方が武田氏の跡取りに相応しいという思いがあったのかもしれません。

この点に関しては、穴山氏が武田氏と並ぶ名門である所から考えて、両家の関係は家臣として仕えるよりも婚姻によって結ばれた同盟関係だったという見方もあります。

それならば、梅雪が勝頼を裏切ったのではなく、穴山氏と武田氏が同盟を一方的に解消した事になります。

梅雪の裏切りの影響

とは言え、穴山梅雪の「裏切り」が武田氏の滅亡のきっかけになったのは間違いありません。

武田氏の一門でも屈指の軍事力を持ち、駿河を守っていた穴山氏を失った事で、徳川家康の軍だけでなく、仇敵の後北条氏までもが駿河を足がかりとして甲斐へと攻め込んできたのです。

また、穴山氏までも裏切ってはもう武田氏は終わりだという印象を残った家臣達に与えたに違いありません。将兵が次々に逃げ出し、勝頼に従う武将は殆どいなくなってしまいました。

唯一、高遠城を守る弟の仁科盛信と母方の実家の諏訪氏である諏訪頼豊だけが武田氏の為に抵抗を続けたと言いますが、結局は僅かな家臣に守られた武田勝頼は正室の北条氏、嫡男の信勝と共に自害に追い込まれました。享年37歳、これにより武田氏は滅亡します。
b4bc0761270680a114c8da0cdd3400c4_s

まとめ

穴山梅雪は直接的に武田勝頼と戦った訳ではありません。

しかし、彼が武田氏を見放した事は武田氏の陣営の士気を壊滅的なまでに低下させます。

それは結果として家臣達の離反を招き、勝頼を自害に追い込んでいくのです。

穴山梅雪こそ武田氏の命運を左右した人物だったという事ができるのではないでしょうか。

Mana

投稿者プロフィール

歴史が好き!!の勢いで突っ走る歴史オタクのライターです。
その時代に生きた人々の文化や偉人達の人間味あふれるエピソードに興味津々。鎌倉や京都、全国の史跡を訪ねつつ温泉や美味しい物を楽しむのが何よりの幸せです。
歴史のオモシロ話を読みやすい文章でお届けできるように頑張ります。

この著者の最新の記事

関連記事

ページ上部へ戻る