明智光秀の子孫が実は現在もいた! どんな人物なのかに迫る!

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本能寺の変で織田信長を討ち、稀代の逆臣として知られている明智光秀ですが、彼の時代は「三日天下」と呼ばれるほどほんの一瞬のことでした。

中国攻めから舞い戻った羽柴秀吉との山崎の戦いに敗れた光秀は、落ち武者狩りの農民に深手を負わされ自害したとも言われています。

さて、光秀にも当然子供がいたはずですが、彼らはいったいどうなったのでしょうか。現代にもその血筋は続いているのでしょうか?

検証の余地がありそうですね!

明智光秀の子孫

さて、明智光秀の子孫についてですが、自称なども含めて何人か現代に続いています。

細川隆一郎(ほそかわりゅういちろう)氏・珠生(たまお)氏

セルフレームのメガネをかけ、痛快な毒舌を炸裂させる姿をテレビで見たことのある方もいると思います。政治評論家の細川隆一郎氏(故人)とその娘の珠生氏は、光秀の娘である珠こと細川ガラシャの子孫にあたります。

ガラシャと夫の細川忠興(ほそかわただおき)には、いざこざにより廃嫡された長男:忠隆(ただたか)がいました。彼の子孫にあたるのがその2人です。珠生氏はクリスチャンなのですが、洗礼名はガラシャです。

明智憲三郎(あけちけんざぶろう)氏

この方はおそらく光秀の子孫(自称)としていちばん有名だと思います。作家として「本能寺の変431年目の真実」などの著書があり、歴史関係のテレビ番組にも出演しています。光秀の子孫として、プロスケーターで信長の子孫であるという織田信成氏に会って、本能寺の変のことを謝罪したりもしています。

憲三郎氏いわく、氏は光秀の子である於隺丸(おづるまる)の子孫だそうです。明智といえば逆臣となるため、明治まで明田(あきた)姓を名乗り、曾祖父の時に伝承品を添えて政府に復姓を願い出て許されたということです。

そして、氏は著書の中で、信長が光秀に対し、かねてより危険とみなしていた家康を本能寺におびき寄せて暗殺しろと命じていたと主張しています。

しかし、光秀はそれを家康に伝え、信長暗殺で共同戦線を張ったというのです。そして、本能寺の変が起こると予想していた秀吉は、中国地方から取って返して光秀を滅ぼし、自分の正当性を主張するために光秀を逆賊に仕立てたのだといいます。

さて、真実は如何に…というところではありますね。

内田青虹(うちだせいこう)氏

内田氏は日本画家で、前述の明智憲三郎氏のブログに、内田氏が明智一族であると打ち明けられたとあります。

また、内田氏の作品には細川ガラシャの絵などがあります。

明智ハナエリカ氏

彼女はミュージシャンをしているようです。日本とイタリア系メキシコ人のハーフで、エキゾチックな顔立ちの美人です。テレビのイタリア語講座に出ていたこともありますよ。

坂本龍馬

意外とこの話は知られているようです。龍馬が光秀の子孫であるという根拠として提示されているのが、「坂本」姓が光秀の領地である近江坂本と通じるということ、坂本家の家紋が「組み合わせ角に桔梗」で、光秀の桔梗の紋と通じるということです。

また、龍馬が長崎で創設した「亀山社中」という会社の名前は、光秀の城があった亀山のことではないかと推測する説があるのです。しかし亀山社中に関しては、会社の造られた場所が亀山というため、この要素は排除しても良さそうに思えます。

加えて、光秀の娘婿である明智秀満(あけちひでみつ)の庶子:太郎五郎が土佐へ落ち延びたという話もあるそうです。

ただ、坂本家の資料にはそうした根拠を示すものはないそうで、龍馬の自称という線が強いのかもしれません。

明智光秀の息子・娘たち生涯

光秀の子供たちについては、俗説が多くはっきりしません。確実に存在し、最も有名なのは珠ことガラシャです。

明智光慶?(あけちみつよし):1569?ー1582?

彼は光秀の長男と考えられますが、名前については錯綜が多く、言い切れるものがありません。光慶という名は「明智軍記(あけちぐんき)」という江戸時代に成立した軍記物のみに出てくるため、確固たる名前ではないとも言われていますし、通称の十五郎に関しても書物によって異なっており、十兵衛とされているものもあります。とはいえ、書状などに息子としての存在があると確認されています。

彼は本能寺の変の前後どうしていたかについては、死亡説や生存説など幾つもの説が唱えられています。

本能寺の変の時は亀山城(丹波国:京都府亀岡市)におり、父の行動に嘆き悶死(病死)してしまいました。

もう一つは、坂本城(近江国:滋賀県大津市)におり、一族の明智秀満の帰還後に秀吉方の兵に攻められ、落城と共に一族と自害したと言われています。

ただ、彼の生存説もあります。

京都市右京区にある妙心寺(みょうしんじ)の住職となり、玄琳(げんりん)と名乗ったという話もあります。玄琳が住んだ瑞松院(ずいしょういん)は、光秀の正妻:煕子(ひろこ)の実家である妻木氏が檀那として出資していました。

もう一つ出家説があり、大阪府岸和田市の本徳寺(ほんとくじ)の住職・南国梵桂(なんごくぼんけい)が光慶であるとも言われています。本徳寺は、光秀の唯一の肖像画を所蔵しているため、関係があるのではないかと言われているのです。

関東地方に落ち延びてきたという説もあります。千葉県市原市不入斗(いりやまず)に、光秀の側室の墓と伝わるものがあります。側室と共に光慶は逃げてきたと言われており、通称の十五郎の名が残っているそうです。現在その墓は光秀の子孫という一族が管理しており、墓石には桔梗の紋が彫られているということです。

珠(細川ガラシャ):1563-1600

細川忠興に嫁いだ彼女は、三男二女をもうけました。しかし本能寺の変によって逆臣の娘となり、夫によって1584年まで丹後国(京都府京丹後市)に幽閉されてしまいます。秀吉のとりなしにより、細川家の大坂屋敷に戻ってからも、夫の厳しい監視が続きました。そして、九州征伐に夫が出陣している間にキリスト教に改宗します。

関ヶ原の戦いの直前、石田三成は各大名の妻子を人質に取る作戦に出ましたが、ガラシャはこれを断固として拒否します。

そして、屋敷に火をかけ、最期を遂げたことでも有名です。

娘①:生没年不詳

正式に名前は伝わっていません女性ですが、信長の家臣:荒木村重(あらきむらしげ)の息子・村次(むらつぐ)に嫁ぎました。

しかし、村重が信長に謀反を起こしたため、離婚し実家に戻ります。その後、明智左馬助(あけちさまのすけ)に嫁いだと言いますが、この左馬助が明智秀満のことではないかという説があります。

だとすれば、秀満は本能寺の変の後に坂本城落城と共に死んでおり、その際に一族を殺したとされているため、彼女も共に死んだ可能性が高いのです。

娘②:生没年不詳

信長の弟:信行(のぶゆき)の息子である津田信澄(つだのぶすみ:織田信澄とも言う)に嫁ぎました。本能寺の変が起きた際、夫の信澄は織田信孝(おだのぶたか)らと共に四国征伐へ向かうところでしたが、光秀の娘婿ということで殺害されてしまいます。

妻に関して記録はありませんが、共に殺されたか、出家したか…というところではないでしょうか。

息子②:生没年不詳(?-1582?)

ポルトガルのイエズス会修道士・フロイスの「日本史」には、光秀の子供たちについての描写があります。

そこには、山崎の戦いの後の坂本城落城の際に、明智の二子が亡くなった、彼らはヨーロッパの王子のようだったと記されています。

そして、上の子は13歳だったとあり、これを信じるならば、前述の光慶がそれに当たるのではないかと思われます。

他にも伝わる子供たち

「明智軍記」には光秀の子供は三男四女とされており、「鈴木叢書(すずきそうしょ)」に収録されている「明智系図」では、六男七女とされています。

このように、光秀の子供たちについては情報の錯綜が激しく、確かめるのが非常に難しくなっています。

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まとめ

光秀の子孫については、結局のところ、確かなのは細川氏ということですね。他はちょっとどうなのかなという感じです。

光秀は有名な武将なのに、子供や親族についてあいまいなのが不思議です。ちなみに、明智憲三郎氏の先祖という於隺丸は、上記2つの系図には出てきません。

ただ、明智軍記の方の末子に「乙壽丸」という名があるので、このことなのかなとも思いました。ちなみに乙壽丸の行方はわかりません。

それにしてもこんなに謎が多い人物だとは思いませんでした。光秀の年齢さえはっきりとはわからないのです。

しかも、もちろん本能寺の変を起こした理由も現在まで謎とされており、出自も謎ととにかく謎だらけなのに歴史を大きく変えてしまった男:明智光秀、とても魅力的だと思いませんか?

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投稿者プロフィール

歴史と犬の話題があれば生きていける、そんな人間です。
平安時代と戦国時代が好きですが、調べ出したらどの時代でも面白いです。歴史って本当に面白いものですね。
「トリビア」な話題を、みなさんにわかりやすく面白く読んでいただけるように頑張ります。

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