大坂の陣での明石全登の活躍とその墓の場所は?

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明石全登は、その読み方も定かではなく、「たけのり、なりより、ぜんとう、ぜんと」等様々です。

彼についての研究が、あまりなされていないため、分からない事が多いのですが、大坂の陣において彼が活躍したということは間違いない事実です。

ここでは、この明石全登の活躍と大坂夏の陣の敗戦後について検証していきましょう。

関ヶ原から大坂の陣

明石家は元々は備前の戦国大名浦上家の家臣でしたが、浦上家滅亡後に宇喜多家の家臣となり、明石全登は宇喜多秀家の家老という立ち位置でした。

主君である秀家は豊臣恩顧の大名で五大老の1人として、関ヶ原の戦いでは石田三成率いる西軍に参加。そして、小早川秀秋の裏切りの影響もあり、東軍に敗れてしまいます。

このとき、主君である秀家を関ヶ原から逃し、自身も逃亡をしたとされています。

その後の消息は諸説あり分かっていないものの、大坂の陣が始まる直前にキリシタン兵数千を引き連れて大坂城に姿を現します。

大坂の陣では、木村重成、真田幸村、後藤基次、毛利勝永、大野治房、長宗我部盛親らとともに大阪7人衆と呼ばれており、大坂の陣の豊臣側の中心人物の1人とされています。

冬の陣では、大坂城での籠城策がとられましたが、夏の陣では冬の陣の講和条件として、埋められて外堀を埋められてしまった大坂城から打って出ることになりました。

明石全登もこの戦に加わり、道明寺の戦い・天王寺・岡山の戦いと転戦をしますが、友軍が壊滅し不利と見るや戦場から姿を消したとされています。

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明石全登の最後は謎のまま!?

明石全登の最後は、諸説があり現在のところよく分かっていない部分が多いとされています。

まず、彼の自害の可能性ですが、彼は敬虔なキリシタンとして有名な武将でしたので、自害することは考えにくい。

続いて、戦死説ですが、徳川方の資料には彼を打ち取ったという記録が残っており、これは1つの有力説であるとされています。

ですが、記録としては逃亡したという記録が戦死説より多く残っており、その逃亡先は東北であったり、熱心なキリスト教徒だったという事から南蛮だという説まであり、謎の人物とされています。

墓はどこにある?

先述の通り、謎が多い人物とされており、ここが彼のお墓であるという場所は特定されていませんが、高知県香美市香北町白石という場所に明石全登の墓と伝えられるものが残っています。

現在までのところ、武将としての知名度に対して、分からない部分が多い人物となっています。

大河ドラマ「真田丸」をきっかけに彼についての謎が少しずつ明らかになる事を期待したいですね。

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