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南光坊天海の正体は明智光秀!? 筆跡から真相を探る!!

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明智光秀といえば、本能寺の変で信長を自刃させましたが、すぐ後に中国攻めから急遽戻ってきた秀吉に追い詰められ、居城のある近江の坂本城に戻る途中の山科・小栗栖の竹薮で落ち武者狩りに出ていた百姓に刺し殺されました。

これが一般的な光秀の最期です。しかし、光秀は山崎の戦いで生き延びた末、家康のブレーン的存在の南光坊天海になっていたという異説があります。

まずは簡単に光秀について確認していきましょう。

謎の多い光秀の前半生

美濃・土岐一族の分家・明智家に生まれる。現在の岐阜県の可児市出身。仕えていた斎藤道三の死後、国を出て朝倉を経て信長に仕えました。信長に仕えてからは多くの武功をあげ信長から滋賀を与えられ坂本城を居城としました。坂本城は琵琶湖からの水を取り入れ美しい景観のお城だったそうです。

1582年、秀吉の毛利征伐の支援を命じられて出陣。その途中の桂川を渡り入京してから「敵は本能寺にあり」とあの有名な言葉で本能寺の変を起こします。本能寺の信長、二条御所にいた信長の嫡男・信忠や京都所司代を討った。

これで天下に近づいたはずの光秀でしたが、いくつかの誤算が命取りとなります。まず、中国地方の毛利を攻めていた秀吉は信長の死を隠して和睦し、わずか10日ほどで戻ってきたのです。これが有名な「中国大返し」です。さらに、娘婿の細川忠興と父・藤孝からの援軍も得られなかった。親しかったはずの筒井順慶も秀吉についてしまい、光秀は孤立し本能寺から10日程で百姓に討たれてたことで「三日天下」とも言われてます。

しかし、後に残されたものや証言から光秀は生き延び天海になったという異説が浮上するのです。まずは生き延びたと言われる根拠をあげてみましょう。

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光秀は生きていた?

まず、深手を負ったとしても光秀は一人で行動していたわけではなく、家臣と共に行動していて、百姓に刺される隙があったでしょうか。

また征夷大将軍になろうとする人が竹槍で突ける様な甲冑をつけていたのでしょうか? 光秀を討ったとされる百姓を知るものは周辺の村にいなかったと記されています。

他にも影武者説などもありますが、気になるのは首実検に出された光秀の首級は3つあり、全て顔の皮が剥がされていた上に、暑さで腐敗していたといいます。そんな中で本当に光秀と判別できたのでしょうか?

酷似している筆跡

筆跡が似ていると話題になったのは違うテレビ番組で二度検証されています。どちらもプロの筆跡鑑定士の方を招き光秀と天海の筆跡を鑑定しています。筆跡鑑定の結果は酷似した文字もある中で、全く違う文字も見受けられたようです。

そして、出された結論は二分し、1つは同一人物説、他方では別人だが光秀の近親者ではないかと結論づけています

まだある!?光秀は天海だといわれる理由

  • 日光東照宮にある光秀と同じ桔梗の家紋
  • 南光坊天海は日光の「明智平」の名前をつけた
  • 光秀の死後、寄進され「光秀」の名前が残っている
  • 家康と最初に会った時に人払いをして親しそうにしていた
  • 家光の乳母・春日局が天海に会った時に「お久しぶりです」と挨拶した

真相とは!?

謎の多い光秀の人生。関が原の合戦以降、いきなり家康の重要ポストについた天海。同一人物の可能性もあれば、亡くなった時の年齢を考えると戦国から江戸初期の時代では考えられない程の長生きな天海の年齢。何が真実なのかは更なる史料の発見が待たれるところです。

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