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織田信長と明智光秀の関係はどうだった?

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織田信長と明智光秀といえば、1582年の本能寺の変が有名です。

光秀が恩を仇で返したとか、光秀は信長に苛められていただとか。

実際はどうなのでしょうか。

明智光秀

「敵は本能寺にあり」突如主君である信長に反旗を翻した光秀。

光秀とはどういう人だったのか、ざっとまとめてみます。

1528年から1582年にかけて生きました。彼は美濃の土岐氏の支族でしたが、土岐氏が斎藤道三にとって代わられると、斎藤道三に仕えました。

しかし、1556年の長良川の争いで道三側についたため、一族は離散します。

その後、親族である若狭武田氏を頼り、朝倉義景に仕え、更に足利義昭に仕えます。

1571年に比叡山の焼き討ちで実行部隊として武功をたて、その功績によって近江国志賀領を与えられました。

1573年2月今堅田城の戦いをきっかけに、足利義昭と決別し、信長直属の家臣となります。

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きっかけ

信長と光秀が出会ったきっかけですが、信長の正室である濃姫と光秀は従兄妹だったとされますので、濃姫が嫁ぐ際に出会っていたかもしれません。

また、信長に仕える以前に足利義昭と信長の連絡役をしていましたので、その時にはすでに面識はあったと思われます。

ですので、道三がきっかけとなってお互いに面識はあったかと推察できますね。

本能寺の変はなぜ起きたのか

本能寺の変の直接的なきっかけは、まだ分かっていません。

江戸時代あたりから「怨恨説」が流布したようですが、今のところ言われている有名な説をあげておきます。

その1

信長は短気で苛烈な性格であっため、光秀は虐げられていた。光秀は信長に「キンカ頭」と呼ばれていましたが、キンカ頭とは禿頭という意味になります。

しかし、この渾名は「光秀」の「光」と「秀」を合わせると「禿」と言う漢字になり、信長の洒落だったという説もあります。

そうなると、苛められていたというより親しみを持たれていたように思えます。

その2

丹波八上城に、光秀の母が人質として預けられていましたが、その無事を元城主が保障していました。

しかし、この元城主を信長が勝手に殺害してしまい、怒った家臣は人質となっていた光秀の母を殺害してしまいます。

その遺体は首を切られ、身体は木に縛り付けられたという話ですが、これは「絵本太功記」の創作ともされています。

どこまでが創作か判然としませんが、光秀の母は信長の勝手な判断によって殺害されたようです。

その3

本能寺の変の怒る直前、光秀は徳川家康を接待する役目を信長より仰せつかっていました。

ところが、接待中に「魚が腐っている!」などと信長が因縁をつけ、光秀は接待役を途中解任され、羽柴秀吉の援軍に向かうよう命じられます。

その救援に向かう途中で反旗を翻したのですから、接待役を途中解任されたことがきっかけとなったようにも思えます。

しかし”徳川家康の暗殺を命じられ、それを拒否した”ために接待役を途中解任された、という説もあります。

以上、有名な説を上げてみましたが、真相は不明なままです。

お互いの評価

反旗を翻した光秀ですが、信長に対して並々ならない恩義を感じていたようです。

「明智家法」の末尾部分には

自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分のご恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様のご奉公を忘れてはならない

というような事が書かれています。

確かに主君を転々としていたのですから、光秀にとって信長は恩人でしょうね。

また、「宗及他会記」には本能寺の変を起こす3カ月前に、茶会で信長より賜った書を掛け軸に据え、拝領した釜を使用したと書かれています。

茶会で使用するということは、他者に対しても信長への忠義を示そうとしていたのではないでしょうか?

一方信長側ですが、丹波国平定の「感状」の筆頭に「日向守、こたびの働き天下に面目を施し候…」と光秀のことを褒めています。

光秀が戦に窮しているときに、わずかな軍を率いて自身も怪我を負いながら救援に向かったというエピソードもありますので、信長は光秀を可愛がっていたのではないでしょうか?

藪の中

本能寺の変の真相は藪の中ですが、光秀は信長に恩義を感じていましたし、信長も光秀を重用していたと思われます。

光秀は主君を転々としていますから、信長には何かしら感じ入るところがあったのだと思いますし、だとすると信長の性格に我慢がならずとは少し考えにくいですね。

本能寺の変が起きた時、信長は「まさか光秀が…」と思ったかもしれません。あるいは「やはり光秀が…」と思ったのでしょうか?

どちらか分かることもありませんが、その光秀も天下を取ることはありませんでした。なんだか、皮肉ですね。

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